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この頭に手を/5分で読める現代短歌26

シャンプー 僕は自殺をしてきみが2周目を生きるのはどうだろう
/青松 輝

 初読はインターネットだった。
 わたしのTwitterには短歌の話題がときどき流れ、いくらかは歌そのものだったりする。掲出歌はそのうちのひとつで、わたしの目にしたツイートが誰のそれだったかは、もう定かでない。けれど一読したときから初句〈シャンプー〉と一字空けが印象に残り、およそ一年ぶりにこの一首評「5分で読める現代短歌」を書けそうだ、書こうと考えたとき、触れたくなったのはこの歌だった。
 
 作者は、「Q短歌会」, ユニット「第三滑走路」所属の青松 輝。これを書いているなかで歌と関係名称の正確な表記を確認する際に、この歌の(おそらく)初出が、インターネット上の投稿・選歌・紹介企画の「歌会たかまがはら」(テーマ:速い歌)への投稿(2021/01/16)であることが分かった(つもりですが違ったらどなたか教えてください)。わたしの初読時期も同程度だった気がする。「たかまがはら」企画・司会の天野は〈今までツイートした採用歌の中で一番「いいね」の数が多かった歌です。〉とコメントしており、2021/12/21現在、260いいねを得ている。

 まず取っ掛かりとして、投稿されたテーマの「速い」部分に着目して考えてみる。初句〈シャンプー〉の3.8音程度の速さ。シンプルな初句切れで直後に一字空けが挿入されるのだが、〈シャンプー〉が《あおまつ》のように句切られる4音ではない故、体感としては前のめりで初句リズムに乗りながらも、字空けでは緩衝された着地になる。シャの音も相まって、スムーズに差し出された初句からの勢いが、一字空けでスッと喪われる。スピードに乗って走る車体が一瞬の宙へ跳ぶとき、落下までの慣性継続がわずかに永く感じられるような速度感。また、この句切れまでに得られる情報量の少なさ、ゆえに読者の脳裏に去来する可能性の多さが、この滞空を引き延ばす。
 その中空を経た二句からは、速度を思い出した口語体で、ふた息ほどに語る。〈周〉あたりですこしゆったりとふくらみ、結句〈どうだろう〉で再びゆとりを持つ。

シャンプー 僕は自殺をしてきみが2周目を生きるのはどうだろう

そうね、〈どうだろう〉と言われて、そうねえ、どうだろう……。

 いや、ふざけているわけではなく、ほんとうに「どうだろう」としか返せない。読者としてのわたしが〈きみ〉かもしれないし、そうではないかもしれない。〈僕〉の情報も示されず、二者間の関係性もない。あるのは、人数と、自殺と2周目のトレードオフなのかな? というルールの推測可能性と、提案だけ。〈どうだろう〉と投げられた〈きみ〉、かもしれないわたしたちは、その提案に乗るべきか反るべきかの判断材料を持たない。
 そして、この読後感が第二の中空になる。わたしたちは、このコースターの着地点を知らない。

(このあたりまで書いた時点で、青松本人による掲出歌への言及をTwitterで見つけてしまった。読者の読みにはぜんぜん関係がないことなのだけど、いちおう貼っておきます。歌会でも自作自註ってあまり聞かなくなっているのでなんだか新鮮でうれしいです)


 近現代短歌において、特にアララギの系譜において読者は短歌を通じて、その短歌の主人公と言い換えられうる"作中主体"と同化・近似していく。それは短歌定型や文体、歌において外界と触れてそれを語る〈私〉の不在によるちからだと言える(かもしれない)が、必ずしも現代短歌すべてに備わる機能/期待される働きではない。しかしわたしのコンパイラはアララギ仕込みなので、そのように読むことが基本になる。

 この歌を初めて読んだとき、わたしはむしろ〈きみ〉に近づいた。近づかざるを得なかった。それは前述のとおり、この歌の背景にあるらしいルールについてわたしがあまりに無知だからだ。そのルールに基づいて為されているだろう呼びかけの主体になることはできない。
 そして呼びかけられる側に立たされたわたしたちは、提案への評価をしなくてはならない。どうだろう、どうかなあ。その評価のために、わたしたちにできることは何か。それは前提と条件、法則の推測であり、歌そのもののつくりと構造への希求へつながる。速度をもって投げられたあとの中空で、やけに永く感じられる滞空のあいだに、自分たちがどこから来てどこへ運ばれゆくのか、この慣性系を感じられなければ分からないし、どこから来てどこへ運ばれゆくのかを知るとき、その慣性系を知ることになる。

 結局はテキストとしての歌、その一首の良さを引き受けてから、がんばってその良さを自他にむかって説明できるよう理解と言葉を尽くすほかにない。もちろん、時には良くないと感じる理由についても。

シャンプー 僕は自殺をしてきみが2周目を生きるのはどうだろう

 初読後の宙づりになって、改めてこの歌の構造を俯瞰する。前提を探して読み返す。
 初句〈シャンプー〉が提示されたあと、二句以降で提案。(整理のために二項に分ければ)景と声で抒情する構造なのだが、この歌では、景と声の比率、その混ざり方に特質がある。

 まず、この歌では景が〈シャンプー〉しかない。

シャンプー

 これ、景って言えるのか? 言える。
 具体的な事象を挙げることによる効果のひとつは、その手触りや引き連れる周囲の雰囲気から背景情報やそこに意識が向かっていく主体の心情への補足を行えるという点だろう。そう考えるとき、〈シャンプー〉は、非常に効果的だ。

シャンプー

 まず、シャンプーという名詞の特別さのひとつとして、具体物であり、同時に動作でもある点が言える。わたしたちは"シャンプー"を使って頭を洗うことを"シャンプー"と呼んだりする。あなたはお風呂で先にシャンプーしてから体洗う派ですか逆ですか、洗い終わればゆっくり湯に浸かって、深く息を吐きますか。初句〈シャンプー〉だけで、浴室でシャンプーを使って頭を洗う動作まで引き出せる。もちろん、例えばお店に並んでいる商品棚にも"シャンプー"はあるのだが、それよりも動作としての"シャンプー"を引き出すちからの方が(わたしにとっては)強い。
 そして、〈シャンプー〉が動作となるとき、ここで初めて、読者としてのわたしのからだが、あるひとつの動作と認識を思い出す。
 艶と粘りのある"シャンプー"を手に取り、湯と混ぜて泡立て、その頭に手をかざして、わたしは眼を閉じる。意識は頭皮と髪に触れる指先へ、指先に触れられる頭皮と髪へ。頭と指先だけがわたしになる。およそ誰の身にも覚えのある、この一連の動きを思い出す。境地、世界はわたしだけになる。わたしだけが世界になる。

 この儀式性。身体を使って意識を絞り、外界と遠ざかり、逆説的に世界と一体化する。

 歌の根底に流れるルールを求めて再び読む〈シャンプー〉によって読者のわたしたちは身体を取り戻し、再帰する意識の集中に伴い、得たはずの身体をすぐに棄てる。この頭に手をかざし、ほかを棄てる。そのとき、わたしは動きそのものになる。そして、二句以降の呼びかけが、棄てられるものとその後にまで儀式の射程を延ばす。

シャンプー 僕は自殺をしてきみが2周目を生きるのはどうだろう

 シャンプーは自殺のひとつだ。

 この観点を、まさしく〈2周目〉でわたしは得た。
 とすれば、いわばこの観点を得てから新しい見方で世間を見ることになる。ひとが風呂に浸かって「ああ、生き返る」と漏らすように、いわゆる新たな生を得ることはざらにある。そのなかで、〈僕〉の自殺によってもたらされる〈2周目〉とは、どんなものだろう。そのような〈2周目〉をもたらす〈自殺〉とは、どれほどの。

 結局〈生きるのはどうだろう〉という提案については答えられない。
 でも別に答えなくてもいいよな、と思う。どうだろう。

シャンプー 僕は自殺をしてきみが2周目を生きるのはどうだろう
/青松 輝

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