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演劇ビギナーズユニットで役者をやってみて思ったこと、変わったこと

京都市の東山青少年活動センターが主催している、演劇ビギナーズユニット。

下は中学生から上は30歳まで、演劇初心者(およびそれに準ずる人)が集まり、3ヶ月ほどの講座と練習期間を経て一つの劇を創り上げ、公演を行う

僕は2021年度のビギナーズユニットに参加し、生まれて初めて役者として舞台に立った。

得難い発見がたくさんあって、細かく書きだすときりがないのだけど、なるべくサクッと感想や気づいたことをまとめてみたいと思う。

①演劇をやるのは大変

いきなりそれかよ……と思ったかもしれないが、本当に大変だった。

演劇は役者だけでできるものではなく、それぞれのポジションにそれぞれの大変さはある。

ただ、役者特有の大変さとして、

当日、舞台に立てるコンディションでいなければならない

という点があると思う。

役者は舞台上で生の身体を使って表現する。

だから少なからず身体に負荷がかかる。

どんな演技をするかにもよるけど、少なくとも僕たちがやった『森から来たカーニバル』は、演出の方針もあって「体力を使いエネルギーを発散する」ことが大事な劇だった。

加えて、演劇は「体調が悪いから公演の日をずらす」ということも基本的にできない。

心身を削りながら、公演当日には最高の演技ができるようコンディションを整えていかなければならない。

つまり、不健康と健康のあいだでバランスをとるような、セルフコントロール能力が必要。

これは長年会社でデスクワークばかりやってきた僕には大変だった。

デスクワークにも期限はあるが、間に合いそうになければ一時的に多少無理をして、次の日は休む、といったことができる。

最悪体を壊しても、無理をしようと思えばできる。

でも役者は性質上、体が壊れるほどの無理を「してはいけない」。

無理ができない、という独特の難しさがあった。

②演劇にしかない楽しさがある

演劇大変ばっかり言って志望者が減るといけないので、これは声を大にして言いたい。

演劇は古代から受け継がれてきた、ものすごく息の長い表現形式だ。

現代になっても、大変でも続けたいという人がたくさんいるのは、やはり他には代えがたい楽しさが存在する証だろう。

僕が「演劇特有の楽しさ」だと思うのは、「公演のたびに変化する」「観客が目の前にいる」という二点だ。

劇では同じ脚本を繰り返し演じるのだけど、細かく見ていけば一度として同じ演技はない。

会話の間、動き、表情、すべてが役者間の相互関係のなかで絶えず変化する

観客の反応や空気感によっても演技は変わる。

劇は生き物だ。

僕たちの『森から来たカーニバル』はアドリブ部分も多く、生き生きした面白さがあって飽き性の僕には楽しかった。

自分がやっていて一番楽しかったのも、劇の後半にみんなで「ドンチャン騒ぎ」をするアドリブ場面。

最終ステージでは客席に向かって「お前も!来い!」と叫んでいた。

ビギナーズ参加当初は人前であそこまでできると思っていなかった。

お客さんの存在がそれを可能にしてくれたのだとも思う。

それが演劇のもう一つの楽しさだ。

そう思っていたから、僕は「ドンチャン騒ぎ」以外の場面でも客席に話しかけるような演技を多用した。

長年小説を書いてきた僕にとって、「虚構(フィクション)の世界」は現実から切り離された場所にあるものだった。

「虚構の世界に直接触れられない悲しさ」みたいなものをずっと感じていた気がする。

でも、演劇では役者(自分)が虚構と一体化し、観客に語りかけることで観客を虚構の世界へと引きずりこむこともできる

虚構と現実の境界線を壊し、接続する。

役者と観客の身体が同じ空間に存在する、演劇だからできることだと思う。

③自分の特性を把握できる

役者が表現に使うのは自分の心身だ。

表現の可能性を探りたければ、自分の特徴を把握することが必要になる。

顔、体型、声質、表情、動き、性格、人生経験など、自分を「要素」へと分解し、「役」というパズルを作る上で、自分の持っている要素(ピース)をどう組み合わせるのかを考える。

だから、演技は自分を知るのに役立つ。

自分を客観視するための、鏡に似ている。

「役という他者」と「自分」を組み合わせることで、鏡に映した自分の姿を視ることができる

僕が『森から来たカーニバル』の「牧師」役をやっているとき、いい感じにハマっていたのは、「怒り」「ヘラヘラした笑い」「情けなさ」などの表現だった。

それらは元から自分の中にあったからハマったのだろう。

自分を分析して解体して、使える部分を摘出する。

一見使えなさそうな部分も、工夫しだいで活かせるのが演技の良いところだ。

「怒り」「ヘラヘラした笑い」「情けなさ」はどれも、現実ではどちらかと言うと「ダメな部分」になると思う。

でも、舞台の上ならそういった「醜さ」をあえて演じて見せることで反面教師となり、観客に学びを与えることもできる。

④思考と身体のバランスが良くなる

人間の構成要素を雑に「思考」と「身体」に分けるなら、僕は明らかに「思考」寄りの人間だ。

物事を伝えるときも言葉を使うのが得意で、動作や表情や声色を使うのはあまり得意ではない。

でも役者は身体を使うので身体表現が必須

「こういう場面で、こういう感情を伝えたいときに、身体はどう動かすべきか?」

をちゃんと考えないと、観客から観て不自然な演技になってしまう。

演技をしていないときの身体コントロールも必要だ。

気づけば猫背になっていたり、手をぶらぶらさせてしまっていたり。

そうした余計な動きも観客にはすべて見えているから、作品鑑賞の「ノイズ」になる。

逆に身体が使えるだけではいけなくて、役作りをするときも演技の最中も、役者はいろんなことを思考し続けなければならない

思考と身体、両面の能力を向上させるトレーニングになる。

舞台の本番では、「頭と身体が分離する」ような感覚がした。

身体は勝手に動いて演技をしているのだけど、頭は「いま演技をしている身体」だけに全集中していてはいけない

意識の何割かをそこに充てて、残りの何割かで、

「今あの人があそこにいるから、次の台詞が終わったらあそこへ移動しなきゃいけないな」

とか、別のことも考える必要がある。

舞台は生ものなので、ハプニングが起こったときも素早く対応できないといけない。

だから、常に冷静さがないといけないし、観察力と情報処理能力も上がる。

⑤夢のなかにいる感じになる

稽古場ではなく、実際に舞台に立って稽古をするようになってから、「夢のなかにいる感」が続くようになった。

初めて舞台に立った日は、外へ出て道を歩いていてもその感覚が消えなかった。

「夢のなか感」と言うと「脳内お花畑」的なニュアンスに思えるかもしれないが、そういう感じではない。

眠りのなかで奇妙な夢を見ているときの、あのなんとも言えない感覚だ。

「夢の世界」は「虚構の世界」にもたぶん似ていて、舞台に立つとは「半ば虚構のなかに身を置く」ことだから、「夢感」がしたのかもしれない。

これは役者誰しもが経験するものではないと思う(僕だけかもしれない)。

良いものなのかどうかもわからない。

眠ってるときの夢にも「良い夢」と「悪夢」があるし。

正直、下手したら精神病に近い危険な感覚だったと思う。

自分が自分でないような、世界と膜で隔てられて水のなかにいるような非現実感。

離人症と呼ばれる精神疾患の症状の一つに似ている気がする。

ただ、悪夢っぽい状態がずっと続いたわけではない。

本番でも夢のなか感はあったけど、それは「良い夢」になっていた。

不思議な感じだけど、熱に浮かされていて楽しい

みたいな。

ただの「慣れ」の問題だったかも。

⑥神的なもの(?)に触れられる

演劇には古来より「見えないものを見せる」役割があったそうだ。

たとえば神。

神話を可視化し、民衆に伝える方法の一つが演劇だった。

脚本にもよると思うけど、『森から来たカーニバル』には神っぽい存在である「象」が登場するからか、神っぽいものを感じる瞬間があった。

役のなかで、演技のなかで、自分が無になる。自我が消し飛ぶ。

自然のなかで目を閉じて瞑想しているときの感覚にも近い。

大いなるもののなかに溶ける、みたいな。

⑦承認欲求が減った

僕はこれまでの人生を通じて、割と承認欲求に悩まされてきた人間だと思う。

(承認欲求の苦しみエピソードはこちら

「大勢から認められる何者かになりたい」欲がずっとあった。

でも、ビギナーズをやって以降それがだいぶ薄くなった。

人間なので承認欲求が消えたわけではない。

まだ小説は書いてるし、何者かになれた方がそりゃいいな、とは思うけど、ならなくても良くね?と素で思えるようになってきた。

大勢の人に認められて何になるのだろうか?

ビギナーズの公演は成功した。お客さんからは称賛の声が多かったし、僕の演技も褒められた。

でも映像で見返すと自分の演技はそんなに良いものと思えないし、結局自分が満足できないとしょうがないなと思った。

人から評価してもらえるのはありがたいことだけど、ビギナーズで得られたような評価が、今後別のことで「大成功」して、十倍、百倍という数になったとして、本質的に何が変わるのか?

「数」を追い求めたってきりがない。

人類史上最も多くの人から尊敬されたと思われるイエスキリストやアレクサンドロス大王といった人たちは、尊敬の「数」によって幸せになれたか?絶対の安心を得ることができたか?

僕はそうは思わない。

承認の「数」は、人生を懸けて、自分を追い詰めてまで追いかけるようなものじゃない。

でも良い作品をつくるのは良いことだ。それは絶対そう。

自分の小説に関しては、シンプルにそれだけを考えればいいと思えるようになった。

⑧「良いチームワーク」を経験できた

僕は基本的に個人主義者だ。

人生経験上、組織とかチームといったものに憧れはあっても、あまり期待しなくなっていた

「がんばらない人がいるチームで自分だけめちゃくちゃがんばって、がんばらない人にムカついて神経すり減らすくらいなら、一人でやった方がよくね?」

と思っているタイプだった。

でも、ビギナーズではチームワークの力を心から実感できた。

僕一人ではどうあがいてもできない、全員がそれぞれの良さを発揮したからできるものになっていた。

良い演劇とは、そういうものなのだと思う。

その人の演技はその人にしかできない。

代役がきかない。

僕たちの『森から来たカーニバル』は、そういう劇だった。

「代えのきかなさ」とは、それ以上ない「存在の肯定」だ。

そういうレベルで「存在の肯定」を与えてくれる経験は、人生のなかでもなかなかない。

ビギナーズの参加者が若いころにそれを経験できるのは、とても良いことだと思う。

ビギナーズおすすめだよ

大変だったのは間違いないけど、だからこそ収穫も大きかったし、参加したことに何の後悔もない。

特に最後に挙げた「承認欲求が減った」「良いチームワーク」の二点は、今後の僕の人生を大きく変える経験のような気がしている。

僕以外の参加者でも、「人生変わりました」って言ってる人いたし。

宗教くさいけど事実だからしょうがない。神を見せるものだからな。

今後演劇とどう関わるのか

いま書いている小説が演劇を題材にしているので、少なくともそれを書き終わるまでは間接的に演劇に関わりつづけることになる。

ただ、直接やるのかどうかは何とも言えない。

先月、ビギナーズの演出・演出補佐のお二人が所属する劇団『安住の地』で映像オペレーターのお仕事をいただけた。

そちらもとても良い経験になったので、ありがたいなあと思うけど、今後も継続して仕事にできるのかはよくわからない。

僕は専門技術を持っているわけではないし、今後身につける予定も今のところない。

基本的には小説を書くのを優先したい。

仕事の依頼をいただけて、小説と並行でできそうならやる、くらいが現実的なところ。

ただ、趣味として「本読み」(音読)をするのは良いなと思っている。

ちょうど先日、友達とチェーホフの『ワーニャ伯父さん』を読んでいたけど、とても面白かった。

やっぱり古典の力はすごいし、戯曲は声に出して演じることでより楽しめる

小説を読むときにもたまに音読するようになった。

読書に集中できないときも、音読すると頭に入りやすくなる。これも新しい発見だ。

春になったら人を誘って、外で日に当たりながら本読み会するのもいいな~とか思っている。

おわり

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