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大学入学~1年次の思い出(2017~18年)

私はという季節が好きではない。
理由ははっきりしていて、入学や就職などで、春は環境が大きく変わることが多いからだ。
環境が変わるたびに不適応を起こしやすい私のような人間は、春=苦しい季節だと自然に思うようになっていた。

今から7年前、私は首都圏の某私立大学に入学し、新潟から川崎に移住した。
川崎=治安が悪いというイメージが強い地域だけれど、私の住んでたエリアは修羅の国川崎区ではなく東横線沿線だったので、治安はかなり良かった。
5年間住んでいて、近所であった大きな事件は1件くらいで、深夜徘徊(午前0時頃)をしたときも特に治安の悪い雰囲気は感じられなかった。

入学式がいつ行われたかは忘れたが、おそらく4月1日だったと思う。
慣れないスーツを着て、横浜市にある大学キャンパスの大講堂に向かった。
入学式は憂鬱だった。他の学生連中と馴染める気がしなかった。

数日前の新入生オリエンテーションのとき、後ろの席に座ったら、周りの人間が皆教員の話を全く聞かず、怠そうにスマホで漫画を読んでいた
一応これでも、日本の私学の雄と言われる大学である。
はっきり言って、数年前に通っていた公立中学と大差ないと思った。

だから、私は早々にこの大学に見切りをつけた。
大学を中退することも考えていて、キャンパスライフなんてクソくらえという気分だった。

入学式の記憶はほとんどない。
唯一覚えていることは、大学の校歌?や応援歌のようなものが式の途中に流れた時、内部生の連中だけが意気揚々と肩を組んで歌っていたことくらいだろうか。
はあ、とんでもないところに来てしまったなと思った。

キャンパスはサークルや部活の勧誘でとんでもない人混みになり、私はキャンパスに行くことすら嫌になった。
しかも何故だか、道行く人の中で私だけ勧誘のチラシを貰えないので、もしかしたら俺は1年生と認識されていないのか?と思った。
結局、サークルに入ることはなかった。
鉄道研究会に興味はあったが、金がかかりそうだからやめた。
奨学金を数百万円抱える私にとって、サークル活動は贅沢なことなのだ。

春学期が始まると、履修登録をすることになる。
友達はいないので、大学近くの本屋にあった「楽に単位が取れる科目の情報が掲載されている本」(正式名称は失念した、東大や早稲田でも似たような本がある)と、ネット(楽天の「みんなのキャンパス」)で情報収集し、楽そうな科目を選んだ。

登録が終わると、教科書を買うことになる。
大学内にある特設会場で教科書を買った。特に外国語の教科書が高かった。

授業は割と楽だった。
とりあえず勉強していれば難なく単位が取れた。
ただ、一部の授業は学生の授業態度が最悪で、酷い場合は教員の声よりも学生の話し声の方が大きいということがあった。
難関大学といえど、所詮は私大、学生の質は大したことない。

さらに当時はキャンパス内に何か所も喫煙所があって、しかも建物の入口付近という避けられない場所にまで喫煙所が置かれていた。
2020年頃になって、ようやくキャンパスが全て禁煙になった。
喫煙者のマナーは札幌市民のそれと比べれば遥かにマシであったが、大学に行くたびに煙草臭さを感じていたので、かなり不快に思っていた。

1年次の授業で特に印象に残っているのは、北朝鮮に関する一般教養の科目だった。
テレビにも頻繁に出ている北朝鮮研究者の方による講義で、毎回出席するのが楽しみな授業だった。
教室の前方には、いかにも「北朝鮮マニア」といった感じの人たちがいつも占拠していて、北朝鮮に旅行に行ったりするのはこういう感じの人なんだろうなと思った。

先生の性格や授業の進め方にも好感が持てた。
教室で騒いでいる学生がいると、注意するだけでなく、学籍番号を控えたり、教室から退場させたりしていた。

学部専門の科目では、「経済史」という授業が特に記憶に残っている。
講義を聞くだけでなく、有斐閣の「現代日本経済」という本を買ってさらに復習し、期末試験前には記述試験の問題を何題か予想して、自分で解いてみることもしていた。

だいたいの授業はただ教員の話を聞いているだけで良いが、外国語の授業は厄介だった。
私の大学(学部)では、英語と第二外国語の授業が必修になっている。
第二外国語はドイツ語を選んだ。
その他にも韓国語、中国語、スペイン語、フランス語が選べた。
中国語やフランス語は難しそう、スペイン語はサッカー好きの体育会系が多そう、韓国語は簡単だが、単位が取りやすいかどうかはよく分からなかったので、無難なドイツ語を選ぶことにした。

ドイツ語の教員は優しい女性の方で、ASD(自閉スペクトラム症)のある私に対しても、しっかり配慮してくださった。
そのおかげで、授業に毎回出席でき、単位も無事取ることができた。
一方、英語の授業は厳しかった。
英語には「リーディング」と「コミュニケーション」の授業があって、「コミュニケーション」は名前からしてしんどそうなので、初回から授業に参加しなかった。

「リーディング」は一応初回には参加したが、周りの学生の態度が良くなかったのと、突然教員から当てられてあたふたしてしまったので、2回目の授業からは全てサボった
当然、単位は1つも取れず、この授業は3,4年次に再履修することになった。

首都圏(川崎市)での一人暮らしは非常にきついもので、辛かった私は2週間に1回くらいの頻度(隔週金曜日)で地元に帰省していた。
新幹線で2時間くらいで帰省できるのだが、交通費は往復で15000円ほどかかるので、出費はかなり大きかった。
家族も頻繁に帰ってくる私に半ば呆れ気味で、もうすぐ中退すると思っていたことだろう。

大学生活になかなか適応できず、学内にある医療機関にも相談した。
心療内科を受診し、薬を処方してもらった。
薬の名前は忘れたが、毎回スプーンで錠剤を半分に割って、それを飲んでいた記憶がある。

病院の先生ははっきりとものを言う方で、私が糖質制限ダイエットをして激痩せしたとき、(2020年頃)私の異変に初めて気づいてくれた方でもあった。
私自身はそこまで激痩せしたとは思っていなかったのだが、先生は体重が急激に落ちたことをすぐに見抜き、「あんまり急激に痩せすぎると突然死する危険がある」と注意してくれた。
もし先生に診てもらうことがなければ、無理なダイエットを続け、取り返しのつかないことになっていたかもしれないと思うと、先生は私にとって命の恩人でもあると思う。

春学期が終わる7月頃になると、ようやく精神的な調子が良くなってきた。
初めての期末試験は特に問題なく突破でき、前述の英語の授業を除いて、ほぼ全ての科目で単位を取得できた。

夏休みになると、私は一目散に地元に帰り、ただただ一人で近所をウロウロするか、家に引きこもるというつまらない日々を送った。
2週間くらい地元にいると、いい加減もどかしい気分になってきて、一人旅に出かけることもあった。

私にとっての初めての一人旅は、大学1年の夏に名古屋に行った時である。
その時のことはあまり覚えていないが、地元の駅で駅員と揉めたような覚えがある。
理由は確か、「下車前途無効」のきっぷで途中下車し、残りの区間の料金を払い戻してくれと言ったからだと思う。
(「下車前途無効」のきっぷは、たとえ目的地に着く前に降りたとしても、まだ乗っていない区間の料金を払い戻して貰うことはできず、きっぷは無効になる)
つまり私が無知だっただけなのだが、当時は納得できず、駅員とひと悶着起きてしまった。
名古屋では1泊だけして、近鉄の名古屋駅を見たり、あおなみ線に乗ったりしてすぐに帰った。

当時は某有名鉄道系YouTuberの影響をかなり受けていて、鉄道に興味があった。その人の動画を見ていると、孤独で辛い一人暮らしのしんどさが緩和される感じがあり、私は現実を忘れるために動画に没頭して、鉄道趣味にのめり込んだ。
私が一人旅をするようになったのも、そのYouTuberの影響があってのことだろう。

夏休みが終わると、再び首都圏に戻って大学生活をリスタートさせた。
秋学期は春と比べて精神的に病むこともなく、英語の授業をサボっていることを除けば、特に問題なく毎日が過ぎて行った。

ある日、何となく非日常を体験してみたいと思い、相模原でビジネスホテルに泊まった。
JR相模原駅前にあるホテルだった。
周囲の雰囲気は何となく治安が悪そうな感じだった。

ホテルに泊まっていたら、廊下で馬鹿騒ぎをする声が聞こえてきた。
男女のサラリーマン(OL)連中が、廊下で声を出して盛り上がっていたのである。

本来ならフロントにクレームを入れるべきだったが、私はただただ苛々しながら、その声が鎮まるのを待っていた。
結局午前4時頃になってようやく静かになり、寝ることができたが、朝起きたのはチェックアウト時間ギリギリの午前10時前だった。

急いでホテルからずらかり、電車に飛び乗って大学へ向かった。
残念ながら2限目の授業には間に合わなかった。
あの頃から、私はサラリーマンという存在が凄く嫌いになっていて、それは今でも続いている。

大学では友達もおらず、毎日一人で過ごしていたが、入学したばかりの頃は私に声をかけてくれる人もいた。
1人は、メガネを掛けた女子で、横浜の出身とか言っていた。
どういった話をしたかはほとんど記憶になく、「普段は何してる?」⇒「勉強」⇒「へー凄いね」という感じの当たり障りのない会話であった。
全くまともな雑談ができない性分なので、そのうち話しかけられなくなってしまった。

他にも話しかけられたような記憶はあるが、いずれも1回か2回程度話しただけで、友達になることはなかった。

買い物や食事について振り返ってみよう。

今でこそコンビニを利用することはほぼなくなったが、当時は頻繁に利用していて、特に昼ご飯はコンビニ(と大学生協)で買うことが多かった。
私の自宅周辺には、徒歩30分圏内にコンビニが10件以上、スーパーが5,6件
あるような便利な場所だったので、買い物には苦労しなかった。

大学と言えば学食だが、私は学食をほぼ利用することがなく、結局卒業間近に1回だけ利用しただけで終わった。
キャンパス内でご飯を食べるときは、生協でパンやおにぎりなどを買って、近くのベンチや中庭のようなところで食べていた。

大学キャンパスは私の苦手とするタイプの人が多く、私のメンタルはいつも張り詰めたような状態だった。
唯一気兼ねなく入ることのできた施設が、図書館だった。
1年次は周りの学生に怯えてあまり行くことはなかったが、図書館は大学関係者でないと入れないので、入館するたびに何となく誇らしい気分になった。
大学に馴れるにつれて通う回数が多くなり、土曜日にわざわざ図書館に行くためにキャンパスに訪れることが多くなった。
(残念ながら、私の大学図書館は日曜休館だった。莫大な学費を払っているのにもかかわらず、である。旧帝大は日曜日も開館していると聞き、羨ましくなった。)

それ以外に覚えていることはあるだろうか。
今は特に思いつかないが、また思い出すことがあれば記事にしたいと思う。

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