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ペテルブルクに架かる橋(後編)

 エルミタージュ美術館は、世界三大美術館の一つとして知られている。観光シーズンでは混雑でゆっくり見られないようだが、まだ寒さが残る3月では人はそれほど多くなかった。 
 エル・グレコ、ゴーギャン、ピカソ…数多の有名な絵画が同じ空間に並び、それを目の前で観賞できる。この時間だけでも来た甲斐があったと思えた。しかし広すぎるため数時間では全てを十分に観賞することはできない。旅行ガイドによると、展示物は300万点を越えるという。全てを満足するまで観賞するには最低でも一週間近く館内を歩き回らないといけないだろう。実際にいられたのは三時間程度で、かいつまんでという形ではあったが代表的な作品を間近で観ることができた。

 親切なことに、ガイドブックとステッカーがセットで千円で売っていた。日本円のままでいいという。 
 それを聞いてあるツアー客の男性が困った顔をした。昼食中に熱心に美術について話していたので、彼はそれをすぐ買うものだと思っていた。尋ねてみると、日本円をあらかた両替してしまい残っていない、という。 
 そんなに高い値段でもなかったので、立て替えを提案して千円を貸した。日本に帰ってからコーヒーでも買ってもらえば十分くらいに考えていた。男性は何度も礼を言い、ガイドブックを買っていた。 

 展示はもちろん、建物自体も美しい仕掛けが施されていた。寄せ木細工の床、ステンドグラス、繊細な彫刻のシャンデリア、調度品…物語に出てくるような光景だった。 
 印象に残っているのはレンブラントの「ダナエ」という絵について、ガイドの方が話していた内容だ。これは1985年に観客が酸をかけたせいで損傷している。液体の持ち込みがこれを機に禁止になったが、絵にカバーを掛けるということはせず展示を続けている。これは、カバーを掛けず絵をダイレクトに観ることで、絵からエネルギーを貰うためだという。彼らにとって芸術品は、単なる娯楽ではなく力を与えてくれるものなのだ。 
 作品で一番覚えているのは同じくレンブラントの「放蕩息子の帰還」だ。父が、放蕩の末にすっかりやつれてひざまづく息子を抱いている。父は温かく、全てを赦すような眼差しを息子に向ける。光はこの親子を包むように照らしている…。その絵の前に立つと、見ているこちらまで何かしらの罪が赦されているような気持ちになる。ロシア旅行について語る時、今でも真っ先に思い出す光景の一つだ。

 夜はバレエを見た。演目は「白鳥の湖」だった。有名な作品だが、みどころは同じプリマが演じる、白鳥と黒鳥ではないだろうか。気高く純粋な白鳥と、妖しい美しさを醸し出す黒鳥という正反対の役を、プリマは一人二役で演じる。映画「ブラックスワン」では、この役に抜擢された主人公が黒鳥を上手く踊れず苦しむ。
 生で初めて見たバレリーナは、思ったよりも細く、そして筋肉質だった。華奢で可憐なイメージを持っていたが、考えるとそれであのような動きはできないだろう。その身体からはドレスが纏うレースのような可愛らしい美しさではなく、むしろ研いだ刃物のような鋭い美しさを感じた。

 エルミタージュ美術館から観光バスで移動中、ある橋が見えた。この橋は有名な跳ね橋で、白夜の期間になると跳ね上がり、深夜にはライトアップされた光景が見られるという。実際に通った時は架かったままのため、一見すると普通の橋に見えた。絵ハガキやパンフレットに載っているその橋は見たものより美しく幻想的だった。 
 次はぜひ、白夜にお越し下さいとガイドのアナウンスが告げる。スターバックスで買ったお土産のマグカップにも、その橋は跳ね上がって描かれていた。 
 何とはなしに、ペテルブルクに忘れ物をしたような気持ちになった。行ったけど見ていないもの、「白鳥の湖」の白鳥と黒鳥のように、白夜には違う顔を見せるものがあるに違いない。次行くならば白夜の期間に行き、また跳ね上がった橋を眺めたい。

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