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料理の「文体」、料理の「上達」、料理の「わたくし性」「料理本の正解」……樋口直哉×橋本麻里トークイベントリポート

二子玉川 蔦屋家電 BOOKにて6月27日に開催された『もっとおいしく作れたら』刊行記念イベントは、日本美術や食に造詣の深いライター・編集者の橋本麻里さんとともに、「料理の文体」「料理が上手になるってどういうこと?」「料理本に正解ってあるの?」など、これまで話したことがないようなことを多岐にわたって話しました。橋本さんが様々な切り口から話を引き出してくれたことで、気づきがいくつもある時間となりました。少し長くなりますが、その模様をリポートします。

媒体に合わせた文体を

橋本 樋口さんの新書『もっとおいしく作れたら』は「クウネル」連載に加筆されたとお聞きしました。

樋口 加筆というか、もはやリライトですね。文章は載せる媒体に合わせていく必要があるので、寸法を切り揃えるというのか、パッケージにあわせて整えました。

橋本 パッケージをどちらに寄せたのかというところが気になります。

樋口 そうですね。書籍化の話をいただいたときに、まず聞いたのが「どういう文体でいきましょうか」という点でしたから。

橋本 そう、そのお話を聞きたかったです。

樋口 僕は文体を2種類持っていまして。「です・ます」体で物事をきちんと説明していく文体。もう一つが、「だ・である」体。「わたくしの言葉」で物語るスタイルです。今回の本は後者でわりと小説に近い形の文体を選択しました。

「ご飯を食べている時、怒っている人はいない」
 僕の母はよくそう言っていた。おいしさは主観的な感情で、人それぞれ基準は異なり、すべての人にとっておいしい料理は存在しない。でも、おいしさは誰にとってもポジティブな感情だ。

 『もっとおいしく作れたら』 p3より

橋本 お読みになった方は気づかれたと思いますが、この本には樋口さんがこれまで書かれてこなかったご家族の話や、読んできた本の話のような、まさに私的な、それまで、あえて出さずにおられたのかな、という部分が文字になっていました。それと、読みながら気になっていたのが、文体から感じられるある種の翻訳調の雰囲気。つまり、海外の料理書を読んでいると出てくるタイプの文体だと感じられたのです。

樋口 なるほど、翻訳文体。「クウネル」の連載は「cakes」とかで書いている料理の解説ではなくて、もっとやわらかい読み物なんですね。「cakes」連載が「です・ます」体で、小説が「だ・である」体だとすると、ちょうどその中間が「クウネル」連載。だから、本にする際、どちらにも振れる状態だったので、ひょっとしたら「です・ます」体に振ったほうが良かったのかもしれませんが編集からも後者の文体のままでいいのでは、という提案があったので、喜んで書きました。

橋本 そうでしたか。樋口さんとしては、「だ・である」体で書く方が望ましかったのですね。

樋口 はい。いつも、その前に書いたのと違う内容の本を書きたいと思っているので。僕は純文学でデビューしましたが、その後はエンタメも書いていますし、天の邪鬼な性格なんですね。

橋本 そういえば樋口さんは群像新人賞でのデビューですものね。

樋口 デビューして何年かは料理のことは文章にはしなかったんです。あるとき小学館の編集者から「そろそろ観念して書いたら?」と言われて、そこから小説のモチーフとしても料理を扱いはじめました。

橋本 では料理を題材に書いたのは、小説からですか。

樋口 そうです。同じ頃に取材して書くということをはじめまして、いろんな媒体に文章を書くようにもなりました。取材をして書くというのはとても面白いことで、それはそれで違う文体を必要とする作業。取材物のノンフィクション『おいしいものには理由がある』という本を書いたときに色々と気づいたんですが、小説はテーマをうちに求めるんですが、ノンフィクションは当然、外に求めるんですよね。例えるなら料理を決めてから買い物に行くのではなく、材料を集めてからテーマを考えるのがノンフィクション。ノンフィクション作家じゃない自分が取材物を書く、というのは面白いんじゃないかな、と。

当事者ではないという感覚で書く

橋本 一方で、樋口さんの肩書きは料理家の前に作家が置かれていますよね。「作家・料理家」と。ご自身のなかではどちらが本業という認識なのでしょう。

樋口 それはリズムの問題ですよ。「料理家・作家」って、耳で聴いたときのリズムが悪いじゃないですか。

橋本 そういうことですか!?

樋口 「料理家」というクレジットしかしない本もありますし、「料理研究家」という肩書になることもあります。肩書は使ってくれる人が適当に決めればいいので、とくに意識はしてませんね。

橋本 樋口さんは料理と執筆、両刀使いのプロフェッショナルなのでお聞きしたいことがあります。物書きには作家と批評家を兼ねる方、あるいは作家的な批評家批評家的な作家というタイプの方がいらっしゃいます。たとえば橋本治さんは批評家的な作家であり、作家的な批評家でもある。菊地成孔さんは批評性を持ちつつ、実作もする。樋口さんもどちらも実践されますし、書かれるものを読む限り、「批評性もある作家」タイプ。

樋口 批評性があるかどうかはわからないですけど、批評性を持とうとは思っていて、それが外からものを書くということじゃないですか。当事者ではない、という自覚が批評性につながるのでは。

橋本 何の当事者ではない、という感覚ですか?

樋口 物事を記述するとき「書いている」僕は「料理をしている」僕ではないということですね。取材しているときに思ったんですけど、いろんなメーカーさんを取材して、「僕は物を作っていない」という感覚が強かったんですよ。物を作っていない人間が物を書くってどういうことなんだろうって、自分の立場を考えざるを得なかった。でも、そういう感覚が批評性に繋がるんじゃないかな。

上手になる=解像度が上がる

橋本 本書には、樋口さんが初めてつくった料理についても書かれています。驚くべきごとに、ホタテのソテー、ですか?

樋口 中学生のときです。

橋本 そんな中学生がいるんですね。

そういえば僕がはじめてつくった料理はホタテのソテーだった。ソースにオイスターソースを少し落として、クリームソースに仕上げる。中学生の頃の話で、テレビで見ておいしそうだったので、遊びで焼いてみたら、思いのほか上手にできた。家族も褒めてくれたので、気を良くした僕は料理の道に進んだ。ささやかな成功体験からはじまった習慣が今でも続いているのだから面白い。そんなわけで、ホタテにはいつも感謝している。

『もっとおいしく作れたら』p99より

樋口 この間取材で、この料理を思い出しながら新しいレシピを書いたんですが、昔よりは上手になっているなって思いました笑

橋本 「料理が上手になる」とはどういうことかも、今日話したかったトピックの一つです。これも書いてらっしゃいますね。「上手になるということは解像度が上がるということ」だと。

料理が上手くなる瞬間というのはたしかにあって、それは単純に「おいしい料理がつくれるようになる」ことではない。比喩的に言うと「料理に対する解像度が上がる」瞬間だ。解像度が低い状態だと、全体像や細部がぼんやりとしてよく見えないけれど、鮮明になると原因と結果を繋げる糸の存在に気づける。

『もっとおいしく作れたら』p12より

樋口 料理が上手になるってどういうことか、ずっと興味があります。料理をしているとなかなか料理が上手くならないなって思うわけですけど、昔の自分と比べればそれなりに上手くなっている。自分のことなのに自分ではわからない。じゃあ、料理が上手くなるってどういうことなんだろう? と。

橋本 「料理が上手くなる」問題についてもう少しお聞きしますが、樋口さんは調理師学校を卒業されています。だから基本的な料理の技術の訓練はされているわけですよね。

樋口 調理師学校に行ったり、お店で研修したりもしてきましたが、そういうことで多分、料理ができるようにはなるんですよ。でも、それは上手くなる、とは全然違う。

橋本 料理が上手くなるっていうのは……

樋口 結局、料理の味はつくった人ではなくて、食べる人が判断する。で、食べる人は誰かっていうと、自分じゃない人ですよね。自分は当事者ではないんです。そこが料理の本質のような気がしている。

橋本 その自覚が非常にユニークな料理書を書かせているのだろうなと思うわけです。

僕らはつくった人の心を食べている

橋本 あとは、料理書でよくありがちな道徳論とか人生論がないのが樋口さんのお書きになる本の特徴ではないかと。

樋口 人生論を語るのは70近くになってからでいいんじゃないですか笑 たしかに料理って精神論に近寄りがちですよね。

橋本 それはなぜだと思われますか?

樋口 やっぱり料理は目の前の一皿以外の部分が大きいからですよね。僕らは食べているときに、それをつくった人の心を食べているところがある。そうなるとそういう精神論にいきがちで……あとね、料理の上達ってどこかで止まるだと思うんです。世の中の料理は大体おいしいんですけど、同じ食材、同じレシピで90点の料理をつくる人と95点の料理をつくる人が世の中には存在している。その5点の差はもう精神的な部分でしかない気がする

橋本 精神。

樋口 そう。ヴォルター・ベンヤミンが言うところのアウラ(*)というか。たとえば90歳を超える職人が握ったお寿司はおいしいって判断してしまう何かが料理にはあるんです。

橋本 それで多くの人が、物理的な食材や料理の手順だけでなく、どうしても精神の話をしてしまう?

樋口 料理ってやっぱりその人が生きてきたものがふっと出る。それに触れたときに人の心は動かされんじゃないか、と。僕自身はなるべく料理を作るときに「わたくし」というものを出さないように気をつけているけれど「おいしくしたい」と思うと、どうしても「わたくし」の考えとか、「わたくし」の料理とか、「わたくし性」みたいなものが出てきちゃう

橋本 島尾敏雄さんの私小説のように、それが人の心を動かすわけですね。では「わたくし性」のない料理、あるいはそれを消して成功している料理とは、どういうものなのでしょう。

樋口 「わたくし性」を消そうと思うことが僕の「わたくし性」なので、それが僕の「わたくし性」なんですよ。

橋本 だんだん禅問答のようになってきましたね(笑)。 一見自分を消して食材を語っているようでも、それが樋口さんの「わたくし性」なんですね。

樋口 そう。僕が書く以上、僕の文章になっちゃうんですよ。「です・ます」体のときは記述に徹するので、わりと「わたくし性」を消すこともできる。でも、この本に関しては、割と僕が前面に出て、喋っていますね。だから、ちょっと恥ずかしい。

*アウラ 
ドイツの思想家、ヴォルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』などで提唱した「いま」「ここ」にのみ存在する一回限りの現象(注 樋口)

「わたくし性」の発露

橋本 たとえばアスパラガスの話をしているところで、文末に翻訳調が出てきます。あ、これ海外の料理書で見たというような表現がちょこちょこと。

食べるということは他の命を自らに取り込んでいく行為である。だから、アスパラガスを食べると元気が出るのは当然だ。アスパラガスのおいしさは空に向かって伸びる生命力の味。塩加減ひとつでその味は格段に上がる。必要なのはたくさんの塩を入れる勇気だけだ

『もっとおいしく作れたら』p34より

樋口 あー、なるほど!!  翻訳調って、こういう感じを橋本さんは指してたんですね。

橋本 こういう表現は、日本人の料理研究家の本や、レシピ本にはあまり出てきません。そういう箇所が非常にたくさんある。樋口さんが読んでこられたものの蓄積の結果なのだろうと思いながら読んでいました

樋口 そうかもしれないですね。

橋本 基本的に、料理研究家になる人は料理が好きで料理研究家になっている。ただ、他の分野でもそうですが、たとえばエッセイストになろうと思ってエッセイ専業で書いているのではない、他に専門性を持っている人のエッセイがいい場合が多かったりする。そういうことと似ているのかもしれません。

樋口 なるほど。僕、写真家の人が書いたエッセイを読むのが好きなんです。写真家の人が書いた人の文章って、やっぱり独特の視点があるんですよ。空間の切り取り方とか。文章を書く人には「耳の人」と「目の人」がいると思ってて、僕自身はどちらかというと「耳の人」タイプなんですが、写真家は「目の人」。それが面白い。カメラマンの方と仕事をするといつも写真家は料理のこんなところを見るのかっていう驚きが多くあります。ちなみにこの本は伊藤徹也さんが写真を撮ってくれてます。

橋本 伊藤さんは料理専門ではなく、様々な分野で活躍されている写真家ですね。

樋口 伊藤さんの撮る料理写真が僕はすごく好きなんですよ。なんでかなって思ってたんですけど、あの人が料理写真専門じゃないからかもしれないですね(笑)。

橋本 たとえば着物専門の写真家が独自の、というか、ある種の型にはめて着物のグラビアを撮るのと同じように、料理写真にも定型があるとするなら、伊藤さんはその型から自由なのかもしれない。

樋口 プロの方と一緒に仕事をする楽しさというのは、今回もそうでしたが、伊藤さんが撮った写真を通じて、自分の料理がよくわかる瞬間にあります。あ、俺の料理ってこういう料理なんだって。

橋本 それって、PCで文章を書いた後、いったんプリントアウトして寝かせておいて、客観的に見られるまで距離を置くのと同じ感覚ですかね。

樋口 そうそう。料理人もそうですね。専門雑誌とかで取材を受けることで、だんだん自分の料理のスタイルが固まってくると聞いたことがあります。客観視する場面を作るって大事なんですかね。外から見てはじめてなんとなく自分というものが見えてくる。

新書という体裁は果たして正解?

橋本 冒頭の話に戻しますが、「クウネル」連載時とパッケージを変えて、今回新書という体裁で出されたわけですが、率直に言ってしまうと、新書の体裁じゃないほうが良かったのではないかと思っているのですが。

樋口 よく言われます。今回、マガジンハウスが新たに新書をやるというのでやってみたかったというのがちょっとありました。

橋本 それこそ料理と同じですが、この文体ならこの本文用紙じゃないし、この書体じゃないし、この造本じゃないな、みたいなことってあるじゃないですか。すみません、こんなこと言っちゃって。本文用紙は新書だからだと思いますが、かなり白色度の高い紙ですよね。
(編集部注・本文紙はb7トラネクスト)

樋口 確かにこの紙はむずかしいなー。

橋本 というようなことを、本職のデザイナーでなくても、私や樋口さんのように出版の周りにいる人間はある程度わかる。多分レストランの料理を食べる時も、樋口さんはこのくらいの解像度で見てらっしゃるのだろうなと思うんです。

樋口 小説のことは小説を書いた人じゃないとわからないという論争がずいぶん前にありましたよね。料理も料理をしてないと、本当のところはわからないんじゃないか、と感じるところはあります。2月に『ぼくのおいしいは3で作る 新しい献立の手引書』という本を出しました。こちらは鈴木成一さんというブックデザイナーにお願いしたいんですが、こっちの本はとても読みやすい。本文用紙も上質紙ですからね。こういう仕事を知るとプロってやっぱすごいな、と思いますよね。

料理が上手くなる食べ方とは?

橋本 もう一つ、今日聞いてみたいと思っていた質問に「料理が上手くなる食べ方はあるのか?」というものがありました。

樋口 料理が上手になるにはどうしたらいいか、という質問の答えは、料理を食べることにしかないように思うんです。まずは食べて、ゴール地点を知る。ゴールがわかってないと長い距離って歩けないと思うんですよ。

橋本 そうですね。

樋口 音楽を聴いてる人じゃないと音楽を作れないのと同じ。だから、いっぱい食べることですね。今は相当、世の中全体がおいしくなっている。昔の郷土から一歩も外に出ることなく一生を終える人が作るおいしさのレベルと、今のおいしさのレベルって全然違うと思うんですよ。

橋本 じゃあやっぱり食べるしかないんですね。

樋口 そうですね。あと料理の技術論的な話でいうと、切るとか煮るとか焼くとか、そういった基本的なことの積み重ねなんですよね、料理って。みんな大げさに語りすぎといえば、語りすぎなんですよね。

橋本 聞いている皆さん、「うっ」って顔をされていますが(笑)。

樋口 基本的なことの積み重ねなので、積み重ね方が上手い人と上手くない人がいる。僕、調理師学校で働いていたことがあるんですけど、学生が入ってくるじゃないですか。1クラス大体40人くらい。同じレシピで40人がみんな料理すると、全部違う味になるんですよ。でも、上手い子っているんですよ。そういう子はおいしい料理を食べてきた子なんですね。でも、だからって、その子が将来すごい料理人になるかっていうと全然そんなこともなくて、もちろんそのあとのいろんな人との出会いがあれば、解決できる。いろんな人と交わることで、その人の味ができてくる。

橋本 3代おいしい物を食べてないと、なんて言い方がありますけど、あれはどうですか?

樋口 3代……っておいしいものを食べられる恵まれた環境にいる人って話ですよね。味ってすごく主観的なものだから、継承することは難しい。

橋本 なるほど。

樋口 一方で知らず知らずのうちに影響されるものでもある。テレビ番組なんですが料理人が参加するコンクールを手伝っているので、僕、いろんな地方から来た料理人がつくる皿を食べる機会があるんですけど、たとえばやっぱり愛知の人は愛知の人っぽい調味料が立った味つけをするんですよね。

橋本 へえ!

樋口 これだけ情報が発達し、みんな動くようになってるのに、いまだに地方性ってあるんですよ。

橋本 地方性はかなり後まで残るものなのでしょうか。

樋口 衣食住って言葉がありますけど、住環境はみんな机と椅子で仕事するようになったじゃないですか。衣も日本でもアメリカでもユニクロやGAPを着てる人がいる。でも、食べ物だけはまだ地方性が残っている。そこが食べ物というジャンルのすごく面白いところ。

橋本 家庭の食卓にそれこそ色々出るわけですけど、かと言って、それが全部溶け合って、ドロドロになっているわけでもない。

母の料理と父の本棚から

樋口 料理を書くとき難しいのが「毎日、料理はできません」って言われちゃうことですかね。それは僕もできないよって、話なんですけど。もう少しいい感じに「料理」と付き合えればいいと思うけど。

橋本 この数年、土井善晴さんが「一汁一菜」をテーマに発信されていますが、性別役割分担の問題、どうしてもジェンダー的に女性自身が背負いすぎてしまう、という部分の解消は難しいですね。

樋口 そう。男の人が料理をしない文化というのもやっぱりあるんでしょうね。でもね、僕の読者は料理をする男の人がすごく多いので、これからは心配してないです。世の中は徐々に良くなっていく、と思っているので。

橋本 今回、初めてお母さんの料理も出てきました。

樋口 うちの母は料理が上手いんです。専業主婦だったので、料理する時間があったんだと思うんですけど。

 お弁当にソーセージが入っているとうれしい子供だった。僕の母は切り込みを入れたソーセージをフライパンで炒めて、ケチャップを絡めていたが、ソーセージに切り込みを入れると肉汁が流出してしまう。

『もっとおいしく作れたら』p105より

橋本 そしてお父様の書斎の書棚には丸元淑生先生と辻静雄先生の本があって、樋口さんはそれを読んで育った。

 肉の焼き方で思い出すのは僕が子供の頃、父の蔵書から抜き取った一冊の本だ。書名は忘れてしまったが、著者が作家の丸元淑生氏で、そこにはステーキ肉の焼き方が記されていた。 

『もっとおいしく作れたら』p114より

樋口 たしかに丸元淑夫さんの文章は翻訳文体かもしれないですね。

橋本 辻静雄さんもね。

樋口 そう。辻静雄先生も翻訳文体だ。

橋本 その洗礼を先に受けていたのか。

樋口 だんだんわかってきましたね。

橋本 以前「クウネル」で樋口さんと料理本について対談しました。樋口さんのご自宅で書棚を見ながら樋口さんと私とでそれぞれ3冊ずつ好きな料理本を挙げた際、二人揃って挙げたのが玉村豊男さんの『料理の四面体』でしたね。

樋口 玉村さんの本も翻訳文体です。もともと通訳をしていた方ですものね。

橋本 雰囲気としては伊丹十三さんあたりと似ていますね。

樋口 当時、西洋の文化を日本に持ってくるというか、大人のライフスタイルというものがあった時代。

橋本 そうそう、ベル・エポックな時代。玉村さんはとうとうワイナリーまで作ってしまいました。

樋口 僕の中に玉村さんの文体とか、玉村さんが書いてることへの憧れがあると思います。

採りたてのジャガイモはすぐ茹で上がる

橋本 あと二人の間で評価の高かったのがイナダシュンスケさん。

樋口 イナダさんは天才だと思います。僕は天才の条件の一つに「思い込みが激しい」というのがあると思うんですけど、あの人が見ている世界はちょっと違う。人をあんまり信用していないところがたぶんあって、そこが料理に表れている気がする。

橋本 あまりいないタイプの方。皆無かもしれない。

樋口 僕もレシピはわりと数値化している方ですけど、イナダさんほどじゃない。ああいう仕事は画期的です。

橋本 イナダさんは情緒を信じてないわけでもないんだけど……。

樋口 いや、情緒は信じてないと思いますね笑

橋本 精神論ゼロという感じですか。

樋口 でも、イナダさんが語る食の話は情緒的なんですよね。そのバランスが素晴らしい。

橋本 誰でもレシピ通りにつくればできる、という姿勢で、そこに精神論はない。演出家でいうと、ある程度役者に任せるタイプなのか、1ミリも狂わず演出するのか、ですね。

樋口 僕はもうちょっと任せるタイプです。決め決めでやっても、食材が違いますからね。ガチガチに決めても仕方がない部分があって。揺らぎみたいな、そういうところは残したいと思います。料理の文章を書いていると、そうした揺らぎみたいなものが面白い

橋本 その通りにつくったとしても、ここからここくらいまでの幅があるということですね。

樋口 その部分を楽しみに料理を食べるといいんですよね。工業製品じゃないんだから。

橋本 中火で◯分焼けと書いてあっても、食材の状態によってはプラス10秒とかマイナス10秒とか変わってくる。

樋口 昨日、畑で料理したんですけど、畑で採りたてのジャガイモはすぐ茹であがるんです。水分量が多いから。よく熟成イモってあるじゃないですか。あれは水分量が少ないので時間がかかる。そういう部分をどう見極めて、感じて、料理するっていうのが大事。それを数字で伝えたり、レシピで伝えたりするのは難しい。そういうことって物語とか文章じゃないと伝わらない。でも、今回の本にはそれが書けたように思います。

橋本 レシピ全部に脚注をつけて、ここはこう書いているけれども、実はこの程度の幅がある、ということを書くくらいしないと。

樋口 あ、でも、この本のレシピはこの通りやれば本当においしくつくれますので、そこはご安心くださいね。

橋本 「おいしい」は外していない。

樋口 外してないつもりです。最初、この本のタイトル案として「もっとおいしく作るには」があって、僕が「もっとおいしく作れたら」にしてくださいってお願いしたんです。

橋本 なるほど。

樋口 「作るには」だとハウツー本なんですけど、「もっとおいしく作れたら」はエッセイなんですよ。つまり、この本って、料理本ではないといえば料理本ではないんですよね。料理本はハウツーですからね。

橋本 料理本はハウツー。それもグラデーションがありますよね。檀一雄はどっち?

樋口 檀一雄はハウツーじゃないですね。

橋本 あの通りにやってもできないですものね。

焼きそばソースの味の決め手は

橋本 樋口さんの今後のご予定を教えていただけますか。

樋口 cakesで書いていた連載を本にするのが、絶賛進行中です。あと来年も料理の本が一冊出ます。B5判の、いわゆる料理本です。今度はソースの本で、今レシピを書いてます。

橋本 樋口さんは書くだけではなく、レシピ開発もしてますね。

樋口 調理器具の開発もやってますし、レシピ開発といえば、最近だと焼きそばソースの開発に関わっています。

橋本 そうそう、それも興味がありました。焼きそばソースと他のソースの違いはどこにあるんですか?

樋口 焼きそばソースって何だろうって研究したんですよ。結論としては、焼きそばソースのおいしさは醤油がポイントなんじゃないか、と。ウスターソースにはふつう醤油が入ってないんですが、焼きそばソースには香ばしさとかうま味を担保するために、醤油が必要なんです。あとは糖の部分ですね。この選び方が肝。いわゆる砂糖以外の甘みがないと味に持続性が出ない。たとえば果糖を入れるとか、持続性のある甘さを持つ甘味料を使うとかいろんな手法が使われますが、今回は柿を使いました。柿を低温で長時間加熱して、甘みの持続性がありつつ、さっぱりした味を目指しています。

橋本 たまらない感じになってきましたね。立ち位置の違う仕事を複数、平行して手がけることは、別の仕事に役立ちますか?

樋口 それはわからないですけど。僕は自分からボールを投げることがなくて、来たボールを返すタイプなんです。

橋本 でも小説は自分から書くしかないですよね?

樋口 たしかに小説は自分でボールを投げています。とはいえ、小説も依頼があって書いてるので、そういう意味では依頼があるから書いてるとも言える。

橋本 一作目は依頼なしで書いたわけですよね。それはどうして?

樋口 小説を書き上げたのは、小説を書けると思ったからですね。

橋本 その確信はどこから……。

樋口 小説の書き方みたいなのがわかった瞬間があったんですよ。

橋本 えええ? どういうことですか。教えて欲しい。

樋口 料理も同じなんですけど、小説の構造がわかったんですよ。安部公房が小説で大事なのはテントの梁だと言っていて、構造がわかったら自分でも書けるんじゃないかと思って書いてみたら、デビューできた。料理も同じで、構造がわかったら作れるようになる。もちろん最初は借り物ですけど。

橋本 構造ですか。

樋口 構造です。それは、最初に言った玉村豊男さんの本にも書いてあることだし、僕がやりたいことだし、やってること。

橋本 そのあたりのお話、ぜひまた詳しく聞きたいですね。今日はありがとうございました。


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