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神奈川の田舎育ちの女の子が、テレビでアメリカンドラマを観て、通訳になり、ハリウッドスターと仕事をし、57カ国旅した話

神奈川の、ド田舎生まれのわたし。

小学校までは、小さい脚で、坂を淡々と登り続けて30分。
最寄りの駅も、バスで20分。

そんなわたしが、どうして世界に興味を持って、英語を話せるようになり、世界中で働けるようになったのか。

デメキンと呼ばれて変わったわたし


30歳でサーフィンに出会うまでは、仕事が大好きで、毎日バリバリ働いていた。
朝も、昼も、夜も、夜中も。

そんなわたしの仕事は、海外アーティストとライブツアーをしながら、世界中をまわることだった。
リンキンパーク、コールドプレイ、ボン・ジョビにバックストリートボーイズ。

どのバンドも、わたしが学生時代に憧れて、英語の勉強を始めるきっかけになった人たち。
ルーズソックスすら履いていなかった、田舎育ちのわたしが、どうしてそんな仕事をすることになったのか。

思えば、小学校時代。

わたしは、ものすごくシャイだった。
もちろん、クラスでは発言すらせず、ハキハキしている子です、なんて言われたこともない。

転校も何回もして、その度に毎回引っ込み思案になっていた。

そんなわたしの、小学校1年生の時の担任は、女性で、かっこよくてサッパリしているような先生だった。

ある日、クラス全員を海の生物にみたてて、絵を描いていた先生。

「あなたはデメキンね。」
と、わたしはデメキンで描かれていた。
目も大きくないのになんでだろう、と不思議に思ったくらい。

そんな先生は、ある日こう言った。

「あなた、もっとはっきり発言した方がいいわ。」

なんでだか、わからない。

でも、その一言で、わたしはすっかり変わってしまったんだと思う。

わたしの脳みそはとても都合がよく、強烈なできごとを除いては、昔のことはほぼ覚えていない。

なので、その後、また小学5年生で引っ越すまでは、さほど記憶がないのだけど、5年生になった頃には、「わたしがシャイだ。」なんていう言葉は、誰からも聞かなくなった。

運命のCD


そして、中学生になる。

幼い頃とは打って変わって、この時点でもう、運動会や体育祭では、応援団をしたり、文化祭委員になるなど、お祭り大好き目立つの大好きっ子になったわたし。

そうやって、どんどん人と関わる機会を増やしていったことが、今にもつながっているのかな、とたまに思うことがある。

そんなある日。

クラスメートで、2歳ほど離れたお姉ちゃんのいる友達が、学校にCDを持ってきた。
「これ聞いてるんだ。すごくいいよ。」
と言ったような、言っていないような。

わたしは、そのCDを手に取って、衝撃を受けた。

「…なに、この人たち。かっこいい。」

13歳かそこらのわたしは、田舎にいるので、実際にはほぼみたことのない、金髪やらタトゥーやらの容姿、そして、今までに聞いたことのない「英語の音」に、ボツボツと鳥肌が立った。

「この言葉なに?!絶対話せるようになりたい!」

それから、家に帰っては、民法で流されていた「フルハウス」や「アルフ」を必死で見る日々。
「アリー my Love」もよく観ていたなぁ。

その当時は、テレビにイヤホンが挿仕込めるやつがあった。
一人で部屋にこもって、イヤホンで会話を聴きながら、ノートに英語と日本語訳を、2ページの見開きにして、淡々と台詞を書き写した。

毎日、それをしても飽きない。
ドラマも面白いし、なにしろ、モチベーションの上がる大好きな洋楽を、毎日聴いていたから。

動機はなんだっていい。

好きこそものの上手なれ。

そこから、どっぷりそんな日々にハマり、中学校の英語の授業はつまらないな、と思ってしまった。
先生の発音が、とても日本語アクセントが強かったから。

それをみて、「わたしは絶対、あんなに強いアクセントを身につけたくない。」と、耳で毎日必死に英語を聴いた。
聴きながら、そうとうな音痴ながらも、繰り返し歌って覚えた90年代のポップ。
もちろん、今でも歌詞は、脳みそにこびりついている。

今でも、ドラマはやっぱり、アメリカ番組の方が好き。
コメディーも、アメリカのスタンドアップの方が、ウィットが効いている。

こうして、わたしの中学校時代は、英語学習と、小学校から引きずっていた、4年にわたる片思い、がメインだった。
後者の方は、あっけない終わりかたをしたけれど。

つづく。


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