見出し画像

小話『すみません、うちの先生知りませんか?』

もう何十件回っただろうか。
虱潰し、針の筵という言葉の意味をヨウランは身をもって知ったような気がした。多分、本人としては休暇と称しているのだろうか、携帯電話の電源はずっと切られている。

「まったく、先生どこ行っちゃったのかなぁ」

夏の日差しを全身にうけ、額から玉のような汗がしたたり落ちるなか、仲間内から“ド根性ヨウラン”と呼ばれているヨウランですら、この猛暑ではさすがに気弱になって、公園のベンチにドテンと座り込んだ。
赤ひげ先生ことドクター・アントニーの弟子の中で一番の若輩者であるヨウランは、いつも割に合わない仕事をさせられている。それは、放浪癖があり、診察中に時折行方不明になるドクター・アントニーを捕まえるという使命だ。
はっきり言って、ヨウランにだって仕事がある。西洋東洋の薬草学に通じ、主にアジアの薬草を中心に煎じ薬を作っていて、処方している女性やお年寄りにとてもありがたがられているのだ。だけど、ドクター・アントニーの営む診療所の年功序列において年若きヨウランが先輩たちの命令に逆らうことなんてできやしない。

「あとは何処に行けばいいのだろう、まさか隣町まで行っちゃったということはあり得ないよね? 」

手帳をめくりながら、ヨウランはドクター・アントニーが行きそうな場所を彼の立場になって必死で考えた。思えば自分は師匠のことをあまり知らない。家族のこと、どのように勉強をしてきた人なのか、どういう生い立ちなのか、一度も聞いたことがなかった。わかっていることは、いつもド派手な色のネクタイやセーターを好み、ちょび髭を生やしていて、パスタとコーヒーに目がないということ。それ以外では、故郷にいるヨウランの兄が大量の薬草とお茶を送って来た時に、「ヨウランは兄弟がいて良いね」と言ったことで、ドクター・アントニーには兄弟がいないらしいということを悟ったぐらいであろうか。

「兄弟・・・」

そう言えば、ドクター・アントニーが妙に兄弟に拘っていた時期があった。時折診察する幼い兄妹のこと、仲が良い癖に喧嘩ばかりしている性格と見た目が正反対の兄弟のこと、妹の病気を気遣う美しい姉妹のこと。兄弟を見る度に「兄弟って良いなぁ」としみじみ言っていた。

「まさか」

確か、1年ぐらい前にドクター・アントニーが休暇中、旅行先のとある海の街で診察した若い女性がいた。思いがけず、彼女の病気が長引いたためドクター・アントニーは何日かその家に滞在し、その女性の母親と親しくなり、「とても面白い人でね、妹だと思っているんだよ」と大変喜んでいたのを、ヨウランは思い出した。その家は時折、時候のあいさつや季節の食べ物を送ってきてくれて、会ったことはなかったがヨウランはとても良い印象を持っていた。

「そうだ、あそこにいる。絶対あの家だ」

そうと思うと、ヨウランはすっと立ち上がり、地図を片手に今来た道とは逆方向へと走り出した。


*** ***

「先生、帰らなくて良いんですか? 」
「いいよ、いいよ。私は今長期休暇だからね」

娘のマーサが本当かしらとこちらを見やるので、ジュディスも困った顔をしながら肩を竦めた。ここにいる誰もが、ドクター・アントニーが休暇中じゃないことぐらいわかっている。でも、ドクター・アントニーが季節事に旬の食べ物や花を送ってくれて、夫のマーカスと一緒に晩酌をしたり、飼っている鶏と遊んだりと、自分達家族を本当に大好きだということをわかっていたから、帰宅を促すのも忍びなく、彼の好きなようにさせてしまっていた。
ジュディスは酒のお供をして先にソファで寝てしまった夫にタオルケットを掛けつつ、彼ほどの地位の人が職場から抜けてしまうのは大変なことだろうから、ドクター・アントニーの職場に電話した方が良いのかと思いを巡らせてもいた。

ピンポーン—。

「あら、夜にお客さんかい? 」
「宅配便かしら? 」
「ちょっと見てくるわね」

最近壊れてしまったカメラ付きのインターホンのせいで、ジュディスはいちいち、玄関のドアを開けて応対しなくてはいけない。競歩の選手の如く早足で玄関に辿り着き、一呼吸を置いた。

「お待たせしました」

夜の来客にドキドキしながらドアを開けると、不安げな顔をした焦げ茶色の作務衣を着た少し小柄なアジア人らしい若い青年が立っているのが目に飛び込んでくる。手には綺麗にリボンでラッピングされたワインボトルを抱えていた。

「あの、僕、ヨウランって言います。すみません、うちの先生、知りませんか? ドクター・アントニーの診療所の者です」

あらあら、こんなに可愛い弟子がいるのね、とジュディスはヨウランを抱きしめてあげたくなった。

(完)


小話『ヨウランと飲みかけのお茶』も掲載中🐾
​https://note.com/eve_planet/n/n5feae0c6c2a0

この度はサポートして頂き、誠にありがとうございます。 皆様からの温かいサポートを胸に、心に残る作品の数々を生み出すことができたらと思っています。