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耽溺。

 夜は深く、周りはしんと静まり返る街の中。
時折ブオンとエンジンを蒸して通り過ぎる車がある程度で、
街灯が等間隔にこちらから、あちらに伸びていく。
空の中に何かの合図を灯すように、ずうっと伸びていく。

男は名前を相沢正人と言った。
22歳。大学を出たばかりでまだ右も左も分からないまま社会という意味不明瞭な怪物の顎門の中に飛び込んだことを後悔する年齢だ。

正人は道を挟んで真正面に立つ、そのビルの異様なエネルギーに気後れしていた。何か知らない世界に飛び込む直前のやたらに重たくなる気分と、好奇心に溢れて前傾姿勢になるあの感覚が同居していた。

隣には、会社の三年先輩の「秋山」が立って、
同じようにそのビルを眺めていた。
「まあ、そう固くなるなよ。大丈夫、ここはこの街一番の楽しいビルなんだから。」

そう言って秋山は正人の肩をとんっと軽く叩いた。
心強くもあり、また正人は秋山にさえまだ懐いていないだけに
心細くもあった。

「まあ、もう一度説明しとくと、ここはいわゆる『何でもあり』のビルなんだ。一人一部屋一時間10000円ぽっきりで予約すると部屋番号をあてがわれて、俺らはそこに入る。そこにいるのが、どんな女の子なのか、その瞬間まで分からない。それが面白いんだよ。これまで、一番良かったのはほら、経理の鈴木が現役グラビアアイドルと当たって、しかも本番までいけたっていうのが多分最高だろうな。そして一番悪いのは先月の俺。推定年齢65歳のばあさんがドアを開けた瞬間全裸で踊ってたよ。汗だくで。こういうこともある。それも含めて面白いなあと思えたら、まあ社会で何があろうとも楽しく生きていけるって思ってお前を誘ったんだよ。」

はあ、そうですか。

緊張しきりの正人はその説明を聞いて余計に家に帰りたくなった。
尤も、その家にさえ居ついていない正人は帰ってさえ心細いのであるが。

「よし、そろそろ時間だな。」
ぶおん・・・・。
と赤い軽自動車が小さな車体を大きな音を立てて運んでいるその後ろ姿もう一つ見送って、正人と秋山は道を渡った。
少し離れたところにコンビニがある。そのほかは、もう営業を終了したメガネ屋さんとか、クリーニング店があったりするくらい。もう少し行けば駅があるからその辺りはまだ繁華している。

春風がまだ真新しい季節の、折り目のある匂いを漂わせて吹き抜ける。
少しずつ自分も、こうして折り目正しく生きているはずが寄れて廃れて、小慣れていくんだろうか。正人はそれを歓迎できない気持ちでそのビルのエントランスを入った。

透明なガラス扉を重たく閉じると、
元々静かな外の音がさらに遠く感じられた。
少しおしゃれな匂いのするビルは、しかしひと気のないひんやりとした印象だった。

「じゃあ、相沢は602だな。俺は306だ。楽しんでな。また一時間後新しい世界で会おうぜ。」

3階で止まったエレベーターから降りて、秋山はそう言った。
心からうずうずしている様子は、正人にはまだ理解できなかった。
「はい。」と愛想笑いと挨拶を兼ねた返事を投げ返して、エレベーターの扉が閉まるのを待った。

思いのほか、6階はすぐに訪れた。
正人は重たい足取りをそのまま、エレベーターから降りると
あっという間に602の前に到達してしまった。
一時間、この部屋の前で時間を潰してもいいんだけどな。
と、正人は思いながらしかし緊張した指で律儀に呼び鈴を鳴らした。

「はーい。」

中から、若い女の声が聞こえて、正人は胸が解けていくのを感じた。ああよかった!初老の女性の汗だくダンスを見なくても済む。と、喜んで次には期待が押し寄せた。

扉が開くまでの数秒間、正人の頭の中には雑誌でみたグラビアのアイドルたちの顔が次々に浮かんだ。どんな子が現れるだろう・・・・。

ガチャっとドアが開くと、白いバスローブを着た女の子が顔を覗かせた。
それはこれまで雑誌のグラビアで見たどの女の子よりも聡明そうで、綺麗な顔をしていた。鼻筋が通っていて大きな瞳がキラキラと煌めいている。
バッチリ目が合うと全てを見透かされそうで、正人は目を逸らしてしまっていた。

「どうぞ、入って。」

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