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平均的な夏、異常な日。

リリリリ、と夏の夜を虫が嘆いていて、エアコンが嫌いだと豪語する父親のおかげでこのご時世においてもたった一機がリビングにあるのみという稀有を極めるこの家の二階の端の部屋にて気が遠くなるどころかこの世に縛り付けられる地縛霊のごとく眠りにつくことができないでいる。生まれてこのかた夏の夜というものにいい思い出がない成田亜星は今年で17歳になる男子高校生だ。時折友人の家に泊まりに出かけた時などにのみ味わうことのできる就寝時の涼風というものの尊さを思いなんとかその素敵な記憶と思い出への従順な忠誠心で薄手のタオルケットを体に巻きつけてみるものの、灼熱は灼熱だ。

だが亜星には一縷の希望というものがあった。

所属している「格闘技部」という、内容もあやふやな部活での夏合宿が明日から始まるのだ。といっても入門書と大晦日にテレビでやってる格闘技中継の録画を頼りに格闘家に憧れる未経験者4人の集団をかわいそうに思った顧問の教師が隣町にある総合格闘技ジムが主催する夏合宿へエントリーしてくれたというのが話の正体だ。そこで「強くなる」というのは無理でも、その入り口の一端でも垣間見ルことができればいいんじゃないか、とのことだった。宿泊施設は近所のユースホステルを使用とのことで、おそらく冷房設備がないわけないというのが合宿云々よりも強烈な生きる希望だった。
亜星はビデオを見ながら友人たちと体操服姿でああでもねえこうでもねえ痛くねえ苦しくねえ極まってねえと言いながらやる部活動を愛していたが、その胸の内のどこかでは少しくらい専門的知識欲を有していたし、汗と涙の格闘技ライフを夢に見ていた。機会があれば試合にも出たいし、将来できるべき彼女を守ってやれる程度の腕力や技術を欲していた。
この夜、亜星がなかなか眠りにつけなかったのは暑さばかりがその理由ではなさそうだ。

翌朝、15kmほど全力疾走したんじゃないかというほどの寝汗でベッドを洗い物の最中のスポンジぐらいに湿らせて目を覚ました亜星は「暑くても知らない間に寝ちゃうんだな。」と言いながらぼたぼた顎から滴る汗をぬぐいながら目を覚ました。外ではすでにセミがワンワンと束になって喚いている。
朝から水風呂にでも入りたかったが、体を冷やすとそのあとの気温の差分でより夏が暑く感じられることを知っている亜星は熱めのシャワーで汗を流すと母親が作ってくれた純和食の朝食をせっせと口にした。朝食を食べると食べないとでは一日の充実が違う。というのも父親の口癖だ。
隣に座るその父親に、何が楽しくて平成も終わった世界でこんなに季節に準じた気温をひたすらに享受しなくてはならないんだと恨めしそうな視線を送ってみるも、「やっぱり夏は暑くないとな。気持ちいいもんだろ。」と同調圧力精製機よろしくポジティブな言葉を擦り付けてくる。
確かに、家を出るのが嫌だと思うことはない。外の方がまだしも涼しいとさえ思える。そして外にいてもあまり暑い暑いと不満を言わない。そしてクーラー病と呼ばれるある種憧れの病気になったこともない。汗をかいて代謝がいいからか花粉症とやらでもない。ただ寝づらく、暑さにムカついて暴れたくなるという弊害を乗り越えればそれなりにいいこともあるというのは認めるべき点だった。

「気をつけて行ってくるのよ。」優しい母親の声が背中をそっと押す。
特になんの期待があるわけでもない合宿だが、それでも心は弾んでいた。
亜星は自分が思っているよりももっと軽い足取りで、待ち合わせの駅へと飛び出した。それが、思いも寄らない恐怖体験になるとも知らずに。

駅に到着すると、部活仲間の3人がすでに到着して近くのコンビニで買ったアイスをチビチビやっていた。「おお、亜星がきたぞ。」いよいよセミの大合唱も大サビを迎えているのかワンワンという目に見えそうな波形の勢いが増している。時折吹く風は汗を浮かべる肌を一瞬撫でて、また茹だるような熱波の中に突き落とす。亜星は風の通り抜ける瞬間に感じる夏の匂いが好きだった。もっとも、友人に言わせるとアスファルトの溶けたような嫌な匂いだし、夏の風が爽やかだなんていうのは妄想でこれは熱風という悪夢でしかないということでこの辺りも各家庭の環境に則した人格や感覚の違いなんだなと亜星は聞き流した。
引率の先生は電話番号だけ渡し、「くれぐれも問題は起こすなめんどくさいから。あと怪我はするなめんどくさいから。」と託けて姿は見せなかった。4人は却ってその方がいい、自分たちだけでこの数日の合宿を満喫しよう。と思い切り開き直って冒険するような気分で電車に乗り込んだ。
そんなに都会ではないから、ほのぼのとした風景が連なってまるで夏を題材にした映画のワンシーンを切り取って見ているようだった。車窓の向こうを駆け抜ける田園風景はやがて少し古い町並みを追い抜いて、高架の上をスルスルと滑る。隣町のあまり馴染みのない町並みの、様々な家の屋根が通り過ぎていく。夏の強い陽射しを反射してどこかにノスタルジックな気配を感じさせる。亜星たちは高校二年の夏休みを青春のど真ん中から眺めていた。

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