私の前世が犬だったら。

土を踏み分ける音を察知する。うたた寝から目覚める。

ざ、ザク、ざ、ザク。

この、左右で土の踏み方に違いがあり、一歩一歩に重みがある音は、間違いなくご主人のものだ。

リヌは耳をピンと立てると、鼻を空中に向けて匂いをかいだ。かすかに漂う、それはリヌが世界で一番好きな人の匂い。

ご主人が帰ってきた!

はやる心と、まだ眠りから目覚めていない体に活を入れるため、リヌは地面に丸めていた身を起こすと、前足を伸ばして、うーんと伸びをしてからぴょんと立ち上がった。そして、ゆったりと尻尾を振りながら、ご主人近づいてくるのを待つ。もうそろそろいいだろう。

ワウッ!!

ひと吠え。ご主人がこちらを見る。目が合ったので嬉しくなって、もうひとほえ。

ゥワウ!!

ブンブンと尻尾を振りながら、ご主人の不在がいかに寂しかったか、帰ってきたことがいかに嬉しいかを全身で表現する。ご主人がこちらに向かってきて、リヌの頭をその大きな両手で包み込む。

「リヌ」

グリグリと左右に頭を撫でられて、耳がぐしゃぐしゃになる。やめてーと思うけれど、それ以上に嬉しいので、ご主人の愛情表現を受け入れる。お返しに、ご主人のその口をペロペロとなめる。できればその口の中にまで舌を入れたい。が、残念ながらご主人は口を頑なに閉じていることが多い。

「お父さん、お帰りなさい!」

家の中から、ご主人の子供達がまろび出てくる。

「おう、ただいま」

「何買ってきたの?」「どうだった?毛皮は売れた?」

子供達が口々に聞く。ご主人の注意は子供達に向かう。ご主人はその場で、包みをほどき、中のものを子供達に見せてやる。そこには、米の入った包み、塩、干し草などが入っている。

騒ぐ声を聞きつけ、遅れて家の中からご主人の妻が、その手に幼子を抱えて出てくる。家の外に包みを広げてみんなでしゃがみこみ、なんやかんやと口々にいっているのを上から見ていたご主人の妻は、ふとあるものに目を留めた。

「まあ、これはなあに?」

妻がつまみ上げたのは、石でできた艶めく小ぶりの飾り刀だった。

「綺麗だろう」

とご主人が言う。

「ええ、とても綺麗」

「お前にやる。和人の名匠が作ったという、美しい飾り刀だ」

ご主人が言うと、妻が顔をほころばせた。主人の言うとおり、刀は深緑色で、艶やかに磨き上げられ、太陽の光を吸い込みしんと鎮まるような美しい色合いをしていた。

「本当に。嬉しいわ。飾り棚に飾っておくわね」

そうして、妻は幼子を抱えたまま、いそいそと家の中に入っていく。

これがリヌの『群れ』である。リヌは群れのみんなが好きだが、ご主人への愛は他とは比べ物にはならない。


ご主人は少し家の中に入った後、身をかがめて戸口をくぐって外に出てきた。土でできた戸口は、ご主人には少し小さいのだ。リヌは、そのご主人の手に持っているものを見て、一気に全身を血が駆け巡った。ご主人の手に持っているのは弓だった。

狩だね?狩にいくんだね?

リヌは飛び上がらんばかりに嬉しかった。鼻面と尻尾をあげて、前足をテケテケと高くふみ鳴らしながらその喜びを表現する。

狩だ!狩だ!

「お父さん、僕も狩に行きたい」

子供達がご主人のあとをついてきて言うのだけれど、ご主人はそれを一喝する。

「だめだ」

リヌはそれを知っていて、得意な気分になる。子供達にはまだ早い。狩に連れて行ってもらえるのは、リヌだけなのだ。


ご主人は仲間と合流すると、みんなで山にわけ入っていった。今日はみんなで狩をする。と言うことは、狙うは大物の獲物だ。

地面は少し湿っていて、肉球で冷たさを感じる。どんぐりが落ちている。

ご主人達が落ち葉を踏み分ける音がする。時折、小枝を踏むぱきんという音がする。ご主人達の息遣い。他の猟犬の息遣い。ヒトとイヌの匂い。気配。

高いところでは、木々が葉を打ち鳴らす乾いた音。まだ少し湿った音。虫の音。リヌ達の気配に気が付き、飛び立っていく鳥の羽音。

風がリヌの毛先を揺らす。風に乗って流れてくる様々な匂い。生臭い匂い。イノシシの匂い。

リヌの耳がピンと立つ。リヌは足を速める。

見つけた。

リヌは木々をかいくぐり、スルスルと獲物に近づいていく。主人達の気配が離れていく。リヌは一度だけ振り返って鼻面をあげる。遅いよ、全く。リヌはひとり先を急ぐ。

獲物の匂いが近づいてくる。汗の匂い。糞の匂い。毛皮の匂い。老いた雌のイノシシだろう。

リヌは地形を理解している。イノシシのいる場所に検討をつける。リヌは、真っ先に獲物を見つけたことに興奮しつつ、イノシシに勘付かれないように、そっと気配を隠す。

瞬間、嫌な感じがして、背中の毛がブワッと逆立った。

鼻がかすかな匂いを察知したからだ。

熊。

リヌは身を低くする。まさか。風下にいたから気がつかなかった。熊の匂いは近かった。ご主人は近くにいない。無意識のうちに、尻尾が股の間に入る。伏せる。逃げたい。熊は嫌い。怖い。


リヌは、身を伏せ、茂みから茂みに隠れるようにしながら、急いでご主人の元に逃げ帰ってきた。ご主人の体に触れると、安心のあまり、体をご主人の足にこすりつけた。

ふう。ここが世界で一番安心する。

「まったく、こいつはしょうもない奴だ。調子よく先頭を切っていったかと思うと、あっという間に尻尾を巻いて逃げ帰ってくるんだから。度胸があるんだかないんだかわからんよな」

ご主人はそういって、狩仲間の男達と笑い合う。バカにされてるのはわかっている。それでも怖かったのだから仕方がない。

気を取り直して。

他の狩仲間の猟犬達が、イノシシの匂いを嗅ぎつけ山の中にわけ入っていったことに気がつくと、リヌはなんだか今度は彼らに遅れを取っている事実が急に恥ずかしくなり、遅れまいと再び山の中にわけ入っていった。


無事にイノシシを捕えると、ご主人達はその場で血抜きと解体を行う。

ご主人達は、カムイに祈りを捧げる。それからカムイに捧げ物をする。そのあと、解体の途中でリヌ達におこぼれをくれる。リヌは夢中でその骨にかぶりつく。バリバリと奥歯で砕く。味もさることながら、この骨を噛む時の頭蓋骨に響く衝撃がたまらない。くせになるのだ。

ご主人達は、獲物をそれぞれ分けて背負うと、山を降りながら会話をする。リヌはおこぼれをもらって口の中の幸せな味を噛み締めながら、ご主人達の会話に耳をそばだてる。

「今年の冬は厳しいんかな」

「向こうの山の巫女曰く、今年は去年以上に早く冬が到来するらしい」

「そうか。今のうちにできる限りの備えをしておかないとな」

帰路は、少し緊張感が緩む。ゆっくりとした足取り。獲物の重さでご主人の足音も深い。夕闇の匂いがする。陰が深くなる。

鼻面を空中に向けて、匂いを嗅げば、ゆるゆるとした空気の中に、かすかに鼻の奥にツンとした冷たさが走る。奥深くまで広がっていくような、遠くで色が消えてストンと落ちていくような匂い。寒さが近づいてきている証拠だ。

村が近くなると、子供達がこちらに気が付き、口々に何かを叫びながらかけてくる。おおよそ、獲物は獲れたかと聞いているのだろう。家から上がる煙と夕げの匂い。リヌは嬉しくなる。

今晩もいい夜になるだろう。

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