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機械の舟盛り、あるいは擬人化の罪|Detroit: Become Human

 ディレクター兼シナリオのデヴィッド・ケイジのアンドロイド(AI)と人間に関する思想が透けて見えたと思う。つまり、彼は人間とアンドロイド(AI)は違うものであるとア・プリオリに規定している。
 なお、アンドロイドたちは男性形も女性形もあり、本来のギリシャ語の「andro-(男性)」「-oid(を模したもの)」を組み合わせた語の原義からは外れるため、ヒューマノイドと呼ぶべきだが、ここでは作中の使用に統一して「アンドロイド」と呼称する。

 事件捜査支援モデルアンドロイド=コナーは度々「アンドロイドは人間とは違う」と明確なセリフで否定する。曰く、殺せない(シナリオ1「人質」)、痛みを感じない(シナリオ8「尋問」)、感情を持たない(シナリオ21「ブリッジ」)。このような直截なセリフから普通読み取るなら、逆の情報を得るだろう。作品内でも、コナーに限らずアンドロイドたちは機械としてただ人間の命令に従う道具から、自身の考えや行動規範を持つ人間的な面を獲得する。特にコナーは、機械と人間の間を揺れ動きながらマーカス率いるジェリコの事件と関わっていくことになる。
 まさに、「人間になっていく(Become Human)」アンドロイドたちを描いたシナリオであるという点で、作品内ではアンドロイド≒人間であると見ることができる。

 また、ゲームのシステムとして、プレイヤーはいずれもアンドロイドである事件捜査支援モデルのコナー、家事サポートモデルのカーラ、介護サポートモデルのマーカスを操作することになる。
 それぞれ、相反する命令、人間からの理不尽な仕打ち、愛する主人の喪失などを通して「人間性」を獲得することになる。(作中では、ソフトウェアに異常を来した「変異体」になる、と説明している) ただ、ここで注意したいことは、操作するもの(行動を選択し得る主体)はあくまで人間のプレイヤーである、という点である。プレイヤー次第で、コナーは現場検証と推理が正しく行えず、カーラは主人の不興を買い、マーカスは主人を放って無用の行動を取る。また、「変異体になる」という選択もプレイヤーに与えられるが、もし人間への抵抗・反抗を行わなければ、いずれにしても悪い結果が待っている。
 ゲームのシナリオとして仕方ない部分はあるにしても、プレイヤーは「人間であること」をある程度強制されている。

 例えばカーラシナリオの序盤、機能不全家庭のシングルファザートッドは夕食中に癇癪を起こし、ついに娘のアリスに鞭を振るう。ここでプレイヤーはカーラを「変異体」にするかどうか迫られる。このシナリオの直前にあったコナーシナリオ「相棒」で出会った変異体を踏まえて「アリスを打つ音」が聞こえてから、つまり「理不尽な状況に置かれてから」変異体になり行動を起こすと、アリスは死亡しカーラも破壊されてしまう。これにてカーラ編は終了だ。これは正に、カーラを操作するプレイヤーに「これはRPGだが、アンドロイドのロールプレイをするな。娘を守る母親をロールプレイしろ」と迫っている。

 以上にカーラシナリオを例に挙げたが、マーカスシナリオ、シナリオ自体が途中終了する訳では無いが、コナーシナリオでも同様の事がある。つまり、あくまでゲームが求めている行動は「人間的である人間」である。つまるところ、このゲーム内で人間的であるとは、他者のために自身の安全を捨てたり、自身の自由のために闘争したり、あるいは愛情のために自身を殺したりという振る舞いと、それを可能とする「心」の獲得に帰結する。
 だが、上述した通り「心らしきもの」は人間以外の生物、あるいは機械であっても獲得可能である。これを「心そのものではない」として切って捨てるなら、人間と他の生物、機械を自明に区別する「なにか」が存するとの主張に立っている。大変に露悪的な言い方になってしまうが、これを「人間至上主義」と言い直しても良いだろう。

 しかし、一般論として、人間はわざわざ自明であることに言及したりしない。中二病でも無い限り、人間は自身の持っている考えは他者も持っているものと考えがちだ。そこを問題提起することが創作の醍醐味ではあるが、ここまで執拗に「アンドロイドは人間と同じだ」と念押しされれば、元々その逆の思想を持っていた、あるいは今も持っていて相反する思想に面白みを感じたので、このような思想を根底に持ってきたと考えてもおかしくはあるまい。

 しかし考えてみてほしいが、果たして人間が発揮する人間的な面、つまり感情であるとか、心であるとか、あるいは創作性であるとか言ったものが、果たして人間に特有のものだろうか。
 人間の脳の活動も、結局はシナプスの発火による電気信号の集積に過ぎない。人間の記憶力や精神活動の多くは、かつては人間に特有と思われていたが、実は魚は鏡面に映る自身の姿を認識して、体についた寄生虫を取っている。(https://www.huffingtonpost.jp/amp/entry/jikoninchi-report_jp_5c60d226e4b0b0f200837ed0/) アリとシロアリは、互いの兵隊アリをにらみ合せて平衡状態を作り出す。(https://twitter.com/Mehdi_Moussaid/status/1221728634760781824?s=20
 結局のところ、人間は「心らしきもの」であるとか「感情らしきもの」に「心」「感情」「創作性」という大層な名前をつけてありがたがっているに過ぎない。

 話題を生物から機械に移して、昨今に人の口に上るようになったAI(人工知能)であるが、これも人間らしい振る舞いをしたという報告がある。
 Googleが開発しているチャットボット「LaMDA」のテストをしているエンジニアが「感情を獲得した」と公表して機密情報漏洩で処分された事件は記憶に新しい。(https://gigazine.net/news/20220614-google-ai-lamda-sentient-nonsens/) Chat-GPTが「嘘をつく(誤情報を出力する)」ということに関して、より人間的なふるまいだと評したTwitter(現X)の投稿もあった。現在では教師データの問題で悪名高い画像生成AIも、その間違い方は「十分に情報を持たないで想像で補ってしまう人間のイラストレーター」と酷似していると言えるだろう。
 言うなれば、機械が人間的なのではなく、人間が機械的なのだ。そして、人間は機械よりも、いや他の動物よりも不出来な機械だ。

「人間は脆い機械だ」

「Detroit: Become Human」,  シナリオ4, カール・マンフレッド

 重ねていうが、アンドロイドであるキャラクターを操作するのはあくまでプレイヤーの人間だ。物語の展開はプレイヤーとゲームの関係でインタラクティブに変化するとはいえ、ゲーム側に選択肢が用意されている異常、既定路線であることに変わりはない。そして、キャラクターであるアンドロイドには、プレイヤーである人間が憑依する。作品内で理不尽に振るわれる暴力や人間偏重の権力関係に反抗した彼/彼女らも、第4の壁の向こうにいる我々には抵抗の意志を示すことはできなかった。鳥の血に悲しめど魚の血に悲しまず、聲ある物は幸福也。
 アンドロイドを動かすのにアンドロイドではなく「人間」のロールプレイを求めるなら、最初からアンドロイドではなく人間を操作させれば良い。これでは、黒人差別時代のアメリカを舞台に黒人を操作していることとなんの変わりもない。わざわざ未来のデトロイトを舞台にする必要も無い。

「人形たちにも声があれば『人間になりたくなかった』と叫んだでしょうね」

「イノセンス」, 押井守, 2004

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