7/2の日記

1 コアトークカフェ「無駄」
2 ファシリテーターの難しさ
3 私的言語と夢言語と意味ゾンビ



1 コアトークカフェ「無駄」


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無駄というのは、目的によってあるいは観点によって、あるいは言説の主体の意図によって、無駄であったりなかったりと言われる、というのが対話の多くの時間を占めていた話題であった。そのような大枠の中での細分類がなされていたり、問題点が指摘されたり、自分の体験に照らし合わせて理解されていたり、ということが起こっていたのだと思われる。それはそれでよいとも思われたし、私自身は、このコアトークカフェには「話し」に来たというよりはむしろ「聞き」に来たという感じなので、とくに発言もせずにずっとそれを聞いていた。「無駄」ということを多面的に議論することができた反面、論点が乱立してその繋がりがつけにくい、と私は思った。ファシリテータのKさんも何度かそのことを指摘していたように思う。そこではじめからの話題が十分に長いこと続いたと私には思われたので、最後の30分弱程度はもう少し別の話を聞きたいと思って発言したのであった。それは結局のところ自分の関心に引きつけたものであったので、発言するかどうかには気が引けた。しかし、是非ともこの場にいる人々はどう考えるのか聞きたいと思ったので発言することに決めた。しかし、そう決心するときには、あまり明確にではなかったが、自分自身に対してだいたい次のように言いきかせたのであった。「発言をなるべく短くする」「難しいことであっても、説明をしようとして色々付け加えて話さない」「質問されて答えたいことがあっても、一言で答えられそうにないと思ったら、言いたいことがあっても宙ぶらりんにしてでも、短く終わらせる」など。
私が言ってみたのはおおよそ次のようなことだった。「神は存在する」のように、目的とか観点とかがそもそもないようなものは、無駄なのか無駄でないのか。そして、それを言ったついでに私はそうしたことはやはり無駄なのではないか、と思ったので、それも付け加えた。とはいえ、これが以上のように簡潔に言えたわけではなかったから、何度か幾人かの人々と応答しながら、それとなく自分の出した問いが理解されるようになっていたのではないかと思う。いや、何人かの人々には問いが理解されたとは思う(本当にそうかどうかは疑いうる)が、他の人々はどうだったのだろうか。簡潔にいうことはできたし、その後の応答においても短くすることはできたが、正確に言うのが、やはりとても難しい、と、改めて思った。本当は、「無駄」についてのその応答の内容がもっともっと面白かったのであるが、それについて書き出すとキリがなくなりそうなので、やめておこうと思ったが、でも、一言いっておくと、無駄なものの理由はまた無駄でなければならない、と私は言いたい。神は存在しないのか、なぜ世界があるのか、、、などの哲学の問いが稀有なもの(「稀有」というのはNさんの言葉であった)であって無駄なものであるからこそ、そのように問うことの理由もまた稀有であって無駄なものでなければならない。というのは、そのような無駄な問いを立てるからといって観点や目的が生じてくるわけではないのであって、もしもそのような観点や目的が生じてくるのならば、それにだまされてはならない、と私は考えるからである。無駄な問いを立てることは無駄ではない、などといって何かの観点や目的から、無駄とか無駄でないとか言えるような気がするのは錯覚であって無知である、とのことを徹底しなければならない、と感じるのである。

なんというか、全体の対話についての私の印象は、ちょっと怪しい雰囲気をもつ空間だということもあって、「おとなのための哲学」というのにふさわしい時間をすごした、という感想である。全然関係はないが、四谷怪談をなぜか思い出して、それは関係ねえなあ、と思っていたのだった。


2 ファシリテーターの難しさ


その後Sパイセンと合流して晩御飯とアブサンをした。魔術的なバーに行ってたくさん秘密の話をしたがそれは文字通り秘密である。晩御飯の時に話したのは、ファシリテータの難しさについてであった。その難しさについて語ること自体がすでにそうとう難しいのであるが、やはりファシリテーターのスタイルの違いを加味したとしても、一つの全体の対話(全体対話)と、その全体の部分としての各人が全体を相手にして行なっている対話(自己内対話)とが同時進行する(これはSさんがよく言うところである。)という対話が本性的にもつ構造に由来する難しさを示してみせることを容易にするfacilitateことであろうと思った。つまり、ファシリテーターにとって何が難しいのかといえば、自己内対話と全体対話の絡み合いやギャップを意識させることだろう、と私は思うのだが、どうであろうか。自己内対話に気付かせるような物言いや、全体対話の交通整理や発言の促進などは、それ自体では難しいことではないだろう。それに対して、自己内対話と全体対話のズレがあることに気づいてもらうように促す言葉や態度を示すことが、ファシリテーターにとっても難しいし、対話の参加者がそれを表明することも難しい。だからまたファシリテーターはそれを読み取ったり、それを言語化することがさらに難しい。自己内対話と全体対話にズレがあったとしても聞いていてよい話してみてよい、とのことを示そうとしても特にこれといった手段のようなものがない。その場に任せておくしかないからである。こういうわけで、ファシリテーターは途方にくれるだろうと思われる。これは対話がもっている本質的な構造から由来したものであって、対話に熟達したところで解消されるような問題ではないのではないか、と私は考えている。おそらくは対話にどれほど熟達したものでも、たとえばソクラテスやプラトンでさえも、以上のような対話の構造には抵抗できない。しかし、すくなくともプラトンはその対話篇でこの種のことがいかに難しいのかを書き記そうとしているように私には見える。だからこそ、対話相手を余計に励ましたり、対話相手が不自然なほど反論しなかったり、という工夫がなされているのだと思う。プラトンの対話篇は、対話が難しいとのことを体で示しているように思えて仕方がない。
ところで、以上のようなことを考えながら思ったことは、ファシリテーター(であれ何であれ、名前はどうでもいいのであるが)が以上のようなことをしなければならないとしたらやはりそうとう難しいことであって、これが誰にでもできるわけはないであろう、ということだ。哲学書を読みながら自己内対話し、そして哲学書それ自体の、あるいはその問題の伝統の、全体対話に追いていく、というような書物による訓練を積むのは、必須であろう。しかもそれを生身のしかも一度も会ったことのない大人や子供達とやることを何度も繰り返し練習しなければならない。こんなことが簡単にできるなどとは私には想像もつかない。哲学対話は誰にでもできる、みたいなことは、実は誰も本気では言っていないのではないかと私は疑っている。もしも本気で哲学対話は誰にでもできる、哲学的知識がなくてもできる、とか言っている人がいたら、その人はかなり罪深い嘘つきにならざるをえないだろう、と私は思う。そして、もしも哲学は哲学的知識がなくともできるとか、哲学の伝統に寄らないでもできるとかマジで考えている人が本当にいたら、誰にだまされたのか、よく考えてみたほうがいいと教えてあげたい。多分、この「よく考えてみ」る、ということが哲学の手前の一歩だろうからである。


3 私的言語と夢言語と意味ゾンビ

先週Mさんのヴィトゲンシュタインとアウグスティヌスの話を聞いてから、一週間近く頭の片隅から離れないことがある。ヴィトゲンシュタインの私的言語に関しては様々な解釈がおびただしいほどあるらしいが、その中でそういえば、記憶と私的言語をしつこく論じたと論文や噂話はあまり聞いたことがない。私はいずれの専門家でもないのでよく知らないだけということであろうが、とはいえ、私的感覚や感覚言語Eの有名な話の一連は、アウグスティヌスが記憶について言ったとしてもおかしくない話だなと感じられた。もちろん、アウグスティヌスは記憶を神が与えたものとして全面的に受け入れるが、ヴィトゲンシュタインは記憶の話に関しては結構そっけない、という違いがあるが、言語について哲学的考察が、記憶に重きをおくか、規則(規範)に重きをおくかで、だいぶ大きな対立をなすのではないか、と思われてきたのであった。論理と生活形式との対比よりも、規則(や規範や法則)と記憶(や記録や記号)との対比の方が対比の差が大きいように思われてきた。だから、言語とは論理や生活形式のことであると考えたとしてもやはり規則という点では共通であってそんなに差異がないが、言語とは規則ではなくて記憶のことであると考えるとするとあまり共通のところがないので差異が一層大きいように思われる。しかし、言語は規則であってしかも記憶である、と言えるようなところがあると私には思われるのである。はたしてこれは何の謎なのだろう。
しかし、どうして私に以上のことが気になっているのかといえば、夢日記や夢言語に関心を寄せていたからである。夢は思い出すときにすでにして、思い出すときの現実の言語に夢の記憶が汚染されてしまう。このことを普段意識する人は少ないかもしれないが、あるぼんやりとした夢の出来事を思い出そうと努力しようとすると、思い出そうとするときの言語や規則に縛られて思い出そうとしていることがどれほど強烈かが、十分意識されるように思われる。これを例を挙げて説明できればいいのだが、ちょっと今の私には力量不足である。うーむ、悔しい。しかし、夢日記を書くときに、未来の私に向けて書くとすれば、その未来の私はどのような存在かを考えてみることから何か糸口がありそうな予感がする。というのは、仮に夢言語を開発して夢の記憶に直接アクセスできるようになると仮定してみる。つまり、現実の言語に汚染されないで、夢を記憶していることができるのである。つまり、未来の私はその夢の記憶に直接アクセスできるのである。しかし、今の私は、その記憶を夢言語に結びつけるという働きであるところの意味を用いている。この意味を、未来の私は知ることができるのだろうか。あるいは知る必要はないのだろうか。そのように考えると、未来の私は、今の私にとって、夢言語と夢の記憶を持っていながら今の私が夢の記憶と夢言語を結びつけた意味を知らない、意味ゾンビ(これはMさんの言葉であった)のような気がしてくる。未来の私である彼は、夢言語と夢の記憶にその結びつける意味は必要ないと言い始めるのだろうか…。いろいろ書いてみたが、どうもちょっとあやしいところがたくさんある。言いたいことも自分でよく分からなくなってきた。記憶と意味ゾンビを考えることで、現実の言語が夢言語をどれほど汚染しているかを説明したかったのだが、うーむ、難しくてよく分からない。

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