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世界の終わりと君の始まり

「君はアメリカザリガニを釣った事がある?」

「アメリカかわからないけど、ザリガニは釣った事がありますね。だけど、そんな事が一体?」

「私はね、よく実家の近くで凧糸にスルメをくくり付けて沼にいるザリガニを釣ったものだよ。ザリガニは目の前に動く標的に獰猛な攻撃力で飛び付くんだ。そう、こんな風に」

永海さんは、そう言うと僕の耳にかぷりと噛みついてきた。

「ちょ、ちょっと永海さん、ここ飲み屋ですよ!もう酔っ払ったんですか。ていうか、腕っ、腕を首に回さないっ」

「つまらん男だな拓也君。そんな事ばかり気にしているから、婚約相手に逃げられるのだよ。それに私がたかだかボトル一本で酔うとでも思うのかね?」

「いや、まあ・・・。でも酔っぱらってもいないのに、人の耳に噛み付かないでくださいよ。大体、まだ立ち直っていないのに傷口に塩を塗り込むような事を言わないでくださいよ」

「馬鹿だなぁ君は。これは噛んでいるんじゃない。甘噛みだ。甘噛みは分類するならば、噛むというよりも舐めるという部類に入ると私は思う。でだ、本来なら傷ついていると自己申告している君の傷口を舐めてやりたいし、あるのならば私の傷口とやらも舐めてもらって、くんずほぐれつの傷の舐めあいをさせてやりたいんだが、あいにく私には自分の傷がどんなものか分からない。ならば、せめて君の傷口を舐めてやろうと言う親心じゃないか」

「いや、永海さん親じゃないですし。義理の姉を親と仮定する国はないと思いますよ」

「なにを水臭い。そもそも充と出会うより、拓也と出会った方が早いんだから、それはもう親みたいなもんだろう。それに充がいなくなったという事は、私が拓也の父親みたいなもんだ」

「うちの親父は元気です。知らない間に性転換しないでくださいよ。せめて母親でしょうそれなら」

苦笑いを浮かべながら、僕は永海さんの表情を伺う。兄である充が32の若さで病に倒れたのは昨年の事だった。一年前に結婚相手を連れて来ると兄が連れて来た女性が永海さんだったことに僕は驚いたのだ。

永海さんは僕の高校三年生の時に、教育実習で僕のクラスにやってきた。やたらと度の強い眼鏡をかけた髪の長い人だなと思ったが、特に憧れるような事はなかった。

クラスメイトは品定めもできないほど彼女に夢中だったけれど、受験前にそんな浮ついていられるほど僕は成績に余裕はなかったし、第一当時僕には同じクラスに付き合っている女の子がいたし、仮に僕が他の女性を見て受かれている光景など見られていたら、どんな目にあわせられるか分からなかった。


まさか、その女性が実の兄の婚約相手として家にやってくるなんて漫画みたいな出来事が起きるとは思わなかったし、実際に親族顔合わせの時にも彼女は僕の事など覚えていなかった。ただ僕が一方的に永海さんの事を覚えていただけだった。


「拓也君、君はねブラックバスやアメリカザリガニのような外来種のようにがっつきなさい。失恋くらいで萎れているくらいなら、恋の生態系を壊してしまうくらいに恋に恋い焦がれ恋に泣きなさいよ」

「いや・・・もうそういう時期は過ぎたような。それに何ですか恋の生態系って。そんなものがあるんですか」

「あると思えばあるし、信じない人には行けないガンダーラみたいな場所なのよ。だいたいね、ドラマでも7話くらいで上手くいっていたカップルに亀裂が入って、浮気されるくらいよくある話じゃない。事実は小説より奇なりっていうんだから、小説や漫画原作ばっかりのドラマなら奇妙な事実なんていくらでもあるわよ」

なんという屁理屈かと思ったが、永海さんなりに励ましてくれようとしているらしいことは十分伝わって来た。まあもっと違う方法でなんとかならないものかと思うけれど。


兄が交通事故にあった日、僕は両親にも永海さんにも何も言葉をかけることができなかった。それまで共に暮らしていた家族が永遠に手の届かない場所に行ってしまうというショックに茫然自失してしまっていたから。


「なにを黄昏てるの。つまんないでしょ。何かリアクション取りなさいよ」

「あー。まあなんつうか、ドラマっていうなら永海さんの方がある意味ではドラマチックだなと思いまして」

「そりゃそうよ。人生はドラマだもの」

「うわっ、今時誰も言わないような台詞じゃないですか」

「誰も言わなくなっても、あたしが言い続けるわ。仮にあたしがこの世界からいなくなっても、あなたがそれを語り継げばいい。人はね、存在の死と生命の死、両方あるの。亡くなった人は触れたり、話したりはできないけれど、その人の記憶の中に生きていれば、存在は生き続けているの」

「夢は君の中で永久に生き続けることさ・・・か」

「ん?」

僕は兄が歌っていた歌の一説を思い出した。自分の世界を変えられない男が、誰かの中で生き続ける事を夢見る歌。

「兄貴がね、好きだったバンドにそんな歌があったんですよ」

「そう・・・なんだ。へえ」

興味なさそうに永海さんは手元のワイングラスを手に取る。微かな震えを気付かないふりをするのは、ただ今の僕にできる数少ない事だと思った。

「ねえ、永海さん。あれからもう3年も経つんだ。だからもう、両親も僕も平気だから、新しい人生を生きてください。兄もきっとそれを望んでいるから」

「なにそれ、あたしが邪魔だってこと?」

「真面目な話です」

「そんな安っぽい台詞吐かないでよ。それにあたしの中の充は、そんな事思ってないわ」

端正な表情を険しく歪めながら、永海さんはボトルからグラスに朱色の液体をなみなみと注いだ。

「あなたは外来種にはなれないんです。もうあなたはあなたの道を歩くべきだ」

「やっぱり、あたしが邪魔なのね。拓也君」

「そうですね。邪魔・・・なんだと思います」

「そう・・・」

「永海さんがうちにいることで、両親が、いや僕が過去から逃れる事ができなくなる。さっき永海さんは、永海さんの中で兄貴は生き続けていると言いました。だけど、永海さんがいることで僕の中の兄は半透明な存在になってしまう。忘れる事も、抱えている事もしんどいなら、僕はどうすればいいんですか」

「そんな・・・」

「僕は兄貴がいない日々を送っていて、永海さんも本当は兄貴のいない日々を送っている。だけどあなたはその事から逃げているんじゃないですか」

「そんなことない」

「兄貴は、永海さんの中で生きている。それは永海さんがそう望むのならそれでいいんです。だけど僕は兄貴がそれを望んでいるとは思わない」

永海さんは、少し俯いた後で、すぐに僕の顔を見つめた。

「兄貴は僕に永海さんと出会った日の事を話してくれた事がありました。結婚式の前の日、二人で酒を飲んだ後にカラオケに行ってさっき話した歌を歌った後に兄貴がつぶやいたのを覚えているんです」

「何て?充は何て言ったの?」

「夢は夢で、俺は誰かの中で生きているより、写真の中で笑いながらそいつが幸せになるのを見つめてたほうが嬉しいけどなって。縁起でもないですよね。一番幸せになる日にそんな事言うなんて。まるで自分が居なくなる事が分かって居たみたいに・・・」


「なんで?」

「何が」

「なんで今そんな、今ごろになってそんな事を言うの」

「あなたを傷つけたいと思ったから・・・かな」

「なっ」

「あなたに傷がないなんて、わかりきった嘘をつくからですよ。舐め合うための傷はいらないけれど、傷を隠す事なんてないんです。」

「拓也君。あなた」

僕はゆっくり深呼吸をして、それから永海さんの眼を見ながら続けた。

「ザリガニのように獰猛に、貪欲に、なんて僕にはできそうもないけれど、僕は胸に誰かを抱えながらなんて結婚できないと彼女に言ったんです。それこそありきたりな、馬鹿みたいな言葉になりますけど」


彼女は僕の顔を見て、黙ったまま言葉を待っているように見えた。これから放つ言葉が平穏な世界を終わらせてしまうとしても、彼女の止まった時間も終わらせる事ができるのなら、それはそれで構わない。

僕は世界を変える事なんてできないし、これから言う事が彼女の中に生き続けなくても、忘れ去られたり、冗談にされてしまっても構わない。そう思えるまでの三年を彼女は、兄は笑うだろうか。


「永海さん、俺ね」


そこで世界は終わる。一秒ごとに世界は再生と死を繰り返している。だから人は笑うんだろう。今日を生きながら昨日を振り返って、明日を夢見る。

世界の終わりが来たら、僕は獰猛なザリガニになれるだろうか。

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