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浮草日記

僕は駅のすぐ側に住んでいる、偏屈な物書き志望の男だ。名前はあるようでない。本名は国籍を有する日本人なので一応あるが、ここに書くことではないので省略する。

駅の構内をぶらつくと、夏でもないし、更には夕刻に入りたての時間だというのにビアホールは人で溢れていた。おいおい、まだ冬だぞ。そんなに飲んで酔っぱらって浮き世の辛さを忘れたいのかと毒付きながら、アクリルの板ごしに中の中年のサラリーマンの群れの、心底幸せそうな表情につられて、ほいほいと中に入ってしまった。

いらっしゃいませと、僕より三歳は若いであろう女の子が、職業倫理に則った挨拶をしてきた。髪をアップにして、後ろで一つに束ねていた。一昔前は、これを馬の尻尾に似ているから、ポニーテールと呼んだものだが、時の流れと共に万物は流転するという法則に従うように、アップという、これもある意味で、そのままの意味の呼び方になり変わったというわけだ。

僕は、窓側の一番奥の席に座った。つまりは、先ほど僕が外から見ていたように自分も誰かにビールをうまそうに飲む姿を見せつけ、この店の売り上げに貢献しようではないかと思ったわけである。

麦酒をば、ひとつくだされと、時代錯誤な調子で注文したろかしらと思ったが、日頃、親、親類の方々から定職にもつかず風来坊として過ごしていると白眼視されているので、わざわざ酒を飲みに来てまで肩身の狭くなるような思いをすることはあるまいと、自分の考えを戒め、先ほどの良い声で挨拶をした胸掛けエプロンが良く似合っている女の子を呼んだ。

『只今お伺いいたします。ご注文はお決まりですか?』

いやいや、決まったから呼んだんじゃないかと、いつものヒネくれた思考を一旦閉じ、同時に沸き上がった、ねーちゃん、あんたをお持ち帰りしたいんでっせと言いそうな、謎の関西エロ親父魂をねじふせ、ようやく注文の品を口にした。

『そうねぇ、生ビールの中ジョッキと、チョリソー、あとはポテトフライをくださいな』

女の子は、手に持っていた伝票に胸元のポッケから取り出したボールペンで、さらさらと何事かを書き留めた後、かしこまりました。少々お待ち下さいませと言い残し、厨房の奥へと消えていった。

店内には気だるいムードのジャズが流れている。詳しくはないが、そんなに悪い曲ではないように感じた。薄暗い店内の、ランタンの煤やオブジェの古い味わいとでもいうような色の黒さに、まだビールを飲むはおろか届いてすらいないのに、ほろ酔い気分になってしまった。

駅の構内にある店ということで、外の通路を歩く人たちの姿が慌ただしく変わり続けている。どこかで、これと同じような感覚を体験したけとがあるなと思い、それが、いつどこでだったのかを思い出そうとしているうちに、テーブルの上にはフレンチフライとチョリソー、そして当然のように中ジョッキの縁には、なみなみと注がれた液体と泡が存在を主張していた。

まずは一献と、対面の見知らぬ、頭髪のかなり寂しくなったおっさんに心の中で挨拶をし、ジョッキを傾け、ゴクゴクと喉を鳴らしながらビールを飲んだ。

ビールは最初の一杯が美味いというが、あれは出会い頭の刺激と、以前に記憶している味覚の一致が、そう思わせているのではないかしらんなどと、相変わらず理屈っぽい思考をもてあそびつつ、フォークでチョリソーの表面をぷすりと刺し、それを口許に運んだ。口に入れる前だというのに、既にブラックペッパーを初めとする数種類の香辛料が鼻孔を刺激し、腹の音が、渋いブルースシンガーの唸り声のような音をたてた。

口許を、もぐもぐと動かし、歯で肉を包んでいる豚の胃でつくられている皮をかむ。歯が食い込む度に中から、肉汁が溢れ出してくる。ぷりりっという音がして、口の中に調度よいしょっぱさが広がっていく。それを味わいきる前に、ビールを再び飲む。

それを何度か繰り返すうちに、心の中が花畑になったような気分になってきた。酔っぱらってきているのだ。仲間内では、この状態の事を、よっぱげと読んでいるが、今日はひとりなのでアローンよっぱげであった。

普段は、人の視線などを気にしてしまうので風景の観察という、作家志願の人間には必要であろうと思うこともなかなかできぬのだけれど、酒が入っていることにより気が少しだけ大きくなっていた僕は、ウエイトレスの女の子を、まるで希少種の蝶を見つめる昆虫学者のように、じっくりと見てみることにした。

夕方という事もあり、ウェイトレスは、僕の注文を受けてくれたアップの女の子と、厨房の中で、金髪の髪を料理帽から覘かせているジャニーズ型の顔を多少崩したコックと話をしっぱなしの小太り気味の、ショートカットの女しか居なかった。

小太りの方は、おそらく先輩なのだろう。まともに仕事をせず、調理場でダベってばかりいるようだった。コックたちも、傍目から見ても苦笑いと分かる笑みを浮かべているのだが、当の本人である小太り女は、それに気付いていないようで、満足そうな表情で笑っていた。醜さとは、顔だけでなく、顔に表れる心根でもあるのだなぁと、ポテトにケチャップをなすりつけながら思った。

なんだか気持ちが暗鬱になってきたので、勘定を済ませて再び駅の中をを歩き出した。

知らないうちに、洒落た菓子を売るような店が増えた。なにやら世間ではスウィーツなる言葉で菓子をもてはやしているようだが、そんなもんはくだらないなぁと僕は思う。なんで日本人は横文字に弱いのだろうか?。そりゃあ、逆になんでも漢字で表現する中国みたいな表記よりは格好良いかもしれないが、それにしてもねぇ。

鼻孔に入ってくる甘ったるい匂いの対極のような、辛口の毒々しい思想を持て遊びつつ、僕は駅から外に出た。

春の訪れが感じられてもおかしくない時期であるはずなのに、なぜだか外には寒風が吹きつけていた。それでも、腹に不本意ながら蓄えている脂肪と生来の暑がりの体質からか、周囲の人々が着込んだコート類とは違い、藍色のパーカーとジーンズ、中はシャツとパンツという格好の僕の方が暖かそうに見えた。

アルコールが入ろうが、入るまいが、最初から判断力なんてものは鈍いので、さてどこにいくべぇと呟きながらふらふらと歩く。

まだ寒いとは言え、徐々に陽は長くなってきていて、夕刻の街はカップルが氾濫していた。それに対して僕が反乱を起こしてやりたい気分になったが、多勢に不勢という言葉があるように、勝ち目はないだろう。

別に自分が、ここ数年密接な関係の女子が居ないから、いぢけて反乱の心を抱いたのではない。公衆の面前だというのに、どいつもこいつも、ぴったんこ、いやいや、くにょりんとくっついて歩いているのだ。せめて手を繋いで歩くくらいに留めておいてくれたら、『ええねぇ、二人で居れる時間を大切にしんさいよ』と偽の広島弁で優しく見守りながら通りすぎる事もできるのだけれど、女が、それこそ誰かに支えてもらわなければ立てない病人のような状態で男の肩にすがりついて歩いていたりして、非常に目障りだ。

しかも、男女はそのままの体勢で道を歩いているわけで、当然のように人とぶつかる可能性は高まるわけだ。実際に僕も何度か肩をぶつけられた事がある。それで彼等が謝るかというと、むしろ逆に舌打ちをしたりするのだから盗人猛々しいとはこの事である。

そんな怨念じみた不満が募っているから、自分も恋愛に対する気持ちが薄れていくのだろう。最後に彼女と別れてから、もう3年以上も正式な彼女はいない。

もう今では彼女はいらねえから、たまに会ってくれる女性ができないかねえと思うようになっている。いや、それすら面倒だからいいやと思うようになりつつある。それは、女性に限らず、友人を作ろうとも思わなくなってきていた。

僕は、カップルが集合し、あたかもホタルの里のような状況になっているベンチから遠ざかり、喫煙所の近くにあるプラスティックの椅子に腰かけた。

ふぅ、と溜め息が漏れる。おそらく僕が生来持ち合わせていた幸せの量は、ここ数年であらかた減り尽したのではないだろうか。逃げた幸せが鮭の産卵時のように戻ってきてくれる事をただ願うばかりである。

ふと、顔に冷たさを感じた。涙でも流したのなら可愛いげがあるが、単に降り出した雪の一粒が顔に付着しただけだった。

夕方の雪より、暗くなってからの雪の方が好きなんだがなあ。そう思いながら、僕はポケットの中を探った。がさこそと、レシートらしき紙片が指に触れる。しかし、探していたものは見付からなかった。

そういえば、もう煙草を吸うのは止めたのだったな。さんざんポケットを引っ掻きまわしてから、その事に思い至った。

ニコチンを欲しくなるのは、ストレスが溜っているときだけだった。初めて煙草を口にしたのは、二十歳になる二ヶ月前だったのだが、さほど美味いとも思わず、23の時に、当時好きだった女性の影響で本格的に吸うようになるまでは遠ざかっていた。そして、今では一本も吸わなくなっていた。

なぜか苛々した。なぜだろうと、顔に雪を浴びながら、暗くなりゆく空を見上げ考えた。このストレスは何に由来するものか。暫く考え、やがて結論に達した。僕は街のカップルに立腹した後に、恋人や友達を作ろうとしない己の態度に苛立っていたのだった。

しかし、それが判明したからといって打つ手などないのだけれど。なぜなら、僕はその事を望んでいないからだ。

僕は、ありのままの心で生きていたい。常にそう願い生活している。だが、それをワガママであると言われてしまうことがある。社会とは制約を厳守し、それに耐える場所であるという声が僕を包囲しようとする。

だからこそ、仮面をつけろと知人は言った。タフにならないと大人にはなれないと。僕は、ありのままではいられないらしいし、ありのままでいると、失格者の烙印を捺されてしまうのだという。

望む所だ。僕は、そういって烙印を捺して貰うことにした。友達も恋人も、ありのままの僕を誰が受け入れてくれるというのだろう。だから、僕は一人でも戦う。そう思うことにした。

僕は僕の性格にも疲れているのかもしれない。さきほどのビアホールの先輩店員のように、周囲の事などお構い無しに自分というものを出せば楽だろう。もしくは、受付の女の子のように笑顔を(それが仕事とはいえ)さりげなく出せる余裕を持っていれば、こんなに煮詰まることもないのだと思う。

自分が嫌いかと問われれば、消えたいほどではないが溺愛もしていないと歯切れ悪く答えるだろう。中途半端さと愚鈍さの集合体なのだ。

このまま思考の淵に沈んでいると、さすがに寒さで風邪を引いてしまいそうだったので、椅子から立ち上がり部屋に帰ることにした。

帰りがてら、ビアホールを覗いてみると、さっきの太めの先輩店員がマスターらしい男に叱られていた。その横で、ポニーの受付の女の子は申し訳なさそうに自分の仕事をしていた。きっと先輩が叱られている姿を見ているのが気まずいのだろう。外見同様可愛いなに思った。

部屋の前に着き、鍵を挿し込み、取っ手を右に回すと、カチャリと音がした。開けたドアの中は暗闇で、僕は電気のスイッチを入れる前に、換気扇の音だけが響く部屋の入り口で呟いてみた。

『明るいだけが人間じゃないよな。僕は僕のありのままを選ぶ』

その宣言は力強くはなく、寂しさを含んでいたが、今の自分のリアルだと思った。換気扇はゴゥゴゥと回り続けていた。    

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