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大喜利 in Dreams

最近ネット大喜利を始めた。

始めたと言ってもまだやったのは二回だけで、毎日の大会開催時刻である22時半は疲れて寝ているか完璧に忘れているかのどちらかなせいでほとんど参加できていないのだけれど、やっぱり自分の回答に投票が入っているのを見ると、むふふという気持ちになってけっこう楽しいなと思っている。

しかし、人々におだてられながらなんとなく自分は面白めであるとの感を出しつつ、両の塩舐め指を突き合わせてもじもじやってきたけども、いざ正面からぶつかるとまあつまらない。しきりにつまらない。つまらなくて恥ずかしくて、あらゆる臓器が適温から外れていくのを感じる。

今日がその二回目をやった日にあたりまして、てんでスーパーからっきしだったもので半べそかいてnoteなんか書き始めてしまった。一回目はどの回答も20位前後には入れて、決勝戦みたいなのにも出られたのに、今回はドベ中のドベ連発、挙句の果てには回答後の投票フェーズで一票も入っていない回答すらあって、本当に「わ~~~~!!!!」と叫んでしまった。窓は開いていた。午後23時。

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可能性とはかくも甘美な毒であるなと思います。もう私は24歳で、一ヶ月もしないうちには25歳になってしまうのに、まだできる気がしていてできないことと、できなかったのをやらなかった気にしたことが山ほどあって、蓋をしたまま何がいるかも忘れた虫かごがずっと目の端に鎮座しているような、薄らぼんやりとした全能感と全無能感が往来しているばかりなのです。

思えば矢面に立つことをとにかく避けた人生だった。知らない人とは会話せず、楽器ができないから軽音部に入らず、ゲームをするときは誰もやりたがらないサポートキャラを進んで選んだ。せせこましくて恥ずかしいことをしなければ善い人でいられると思っていたから、AEK-971は使わなかったし、ポイントカードも作らなかった。

2ちゃんねるで安価がついただけで過去ログを見直すくらいには承認欲求が強かったのに、2ちゃんねるなんか見ていたせいでその欲求を(正しいやり方でさえ)求めることを避けてしまった。俺も本当はTwitterしたかったのに。ネタクラスタとか言ってさ、しょうもない替え歌のツイートとかしてさ、オフ会とか、イベントとか、いきたかったのにさ……

結局正面からぶつからずにうじうじしていただけだったのだ、本当にできることなんか数えることすら憚られるのだ、センスがよかったのではなくて人より過剰にナイーヴなだけだった、面白いのではなくて面白い場面で声が大きいだけだった、ゲームが上手かったのではなくてシステム上正しいことをしていたからスコアが高かっただけだった、こんなことを、本当にこんなことを認めるのに四半世紀経ってもまだ叶わないとは!

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書いているうちに落ち着いてきた。ネット大喜利で滑っただけでこんなメランコリックになる奴がいたら怖い。そもそも自分が立っていたのはメジャーリーグでも草野球でもなくバッティングセンターだ。打てない私を誰も見てないし、逆に打ったら血の通った人間がちゃんと褒めてくれる、まこと都合のよい施設である。

そもそもネット大喜利をやろうと思ったのは、友人と朝6時にしていた「ネット大喜利が上手い奴はカッコいい」という談話に端を発したもので、実際にやってみてもやっぱり大喜利が上手い人は「面白い」の後に「カッコいい」が来る。

自分も言うまでもなく逆張りオタクであるから、お題に対しては常に斜め上の発想でやるのが面白いと思っているが、自分のような素人がやっても靄がかった意図不明の回答しか出てこない。上手い人間の回答は必ず予想外の角度からやってきて、傷跡で血がにじむような面白さがある。自分の回答が引力頼りのスペースデブリであるとき、彼らの回答はまるで隕石だ。確かに腑に落ちる勢いと強さがある。

短歌も歌詞も大喜利も、それが経験であれ天賦の才であれ、やはり芯を食った言葉というのは美しく、イカしていて、そのうえで大喜利という刹那的なフォーマットに基づく美が確実にある。実際はどうだか知らないが、歌人や歌手が都会の風を浴びながら情緒をくゆらせて詩を紡ぐとき、大喜利の連中は電子機器やフリップボードに齧り付き、定められた時間で脳髄を抓って面白いことを考えているわけであるから、お前らとってもパンクだぜ!という気持ちになる。 

とても恥ずかしいことを書いたので続けざまに行きますが、ああなりたいです。面白くなりたいです。確かな思い出をもってして、自分を面白いと思いたいです。満員電車に乗っているとき、飲み会で押し黙っているとき、「私は大喜利でウケている面白い人間だなあ」と思いながら息をしたいです。先生。最近寝つき悪いの。悔しいほどせつないの。先生ってば先生。

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さんざ管巻いたけれども、冒頭に述べた通り大喜利は楽しいなと思うし、形がなんであれ、どんな少なくともあれ、どこかにいる何者かが自分の吐き出した何かを面白いと思ってくれるということにはやはりニューロンがぴかぴかして気分がいい。ここ数年は続けたかったことが何一つ続いていないけれど、少しずつでいいからやっていけたらいいなと思う。

そして、いわゆる才能というやつを、虫かごの中で息絶えたカブトムシたちを、一匹余さず目下に晒し、しめやかに弔いたいという気持ちがある。小説と音楽がやりたい。なんとなくできる気がしているから。からっきしならもうそれでいいし、わずかに息があるなら、どうせすることもないのだから、細々とやってみたい。細々でもできたら嬉しいから。

いかにも連休で余裕がありますという感じのすることを言っているな。寝ます。