結局、人は死ぬのが怖いとTarkovにわからされた日

大規模なアップデート実装と共に、全所持品&レベルがリセット(=ワイプ)される一大イベントを迎え、いま乗りに乗りまくっているハードコアFPS、”Escape from Tarkov”。

その直後からこぞってプレイし続けるストリーマーの方々やフレンドたち同様、私もここ数日ずっとこのゲームに囚われ続けている。配信を視聴する間はもちろん、飯を食っても、床に就いても、このゲームのことが頭から離れない。

テープキーで開く110号室にはLEDXがあって、InterchangeのTechlightなる店には50万で売れるGraphics cardが落ちていて、ショットガンにはライトを付けて8.5mmのMagnum Buckshot弾を入れると強いらしくて…(Stylishnoob氏から得た知識)そんなしょうもない情報ばかりが積りに積もっては、目を瞑る度に情景が目の前に広がるような日々だ。

どうしてこのゲームにそんなに囚われているかと言えば、もはや狂気とまで言える、様々なディテールへのこだわりに惚れてしまったことが原因だ。

すべて実在する銃とアタッチメントによって模られるカスタム要素は、他シューティングゲームの追随を許さない幅広さと奥深さで、その手のオタクにはたまらない自由度を誇る。登場する銃器たちは舞台設定に合わせた東側の銃器がメインで、ASh-12やKS-23などのそうそうお目にかかれないレアな銃までもが、これまた飛び抜けて恐ろしいディテールで描かれているのだ。

他にも、スタイリッシュさよりもリアルさを重視した丁寧なリロードモーション、戦場の最中にも関わらずやけにお上品な飲食アニメーション、マガジンを取り出す際の布擦れ、木々をかいくぐってさざめく枝葉、そして勿論、超大迫力の発砲音など、遊ぶ映画と言っても過言ではないレベルのサウンドクオリティまで、圧倒的なリアリズムを追求したデザインの数々は、見ているだけでもうっとりするような出来栄え。

そして何よりその世界観!薄暗い共産圏の雰囲気を存分に湛えた工場群!燃えるガソリンスタンドとゴロツキがうろつく海岸線!放棄された大型デパート!そこに居付いてる全身アディダスのMaska-1ヘルメット付けたボスSCAV!しかも名前が”Killa”!ヘルメットまでアディダス柄!なんとまあかっこいいこと!!!

ユーザー間での取引をメインとしたエコノミーシステムまで、私のようなミリオタもどきの人間にはたまらないゲームなのだ。もうメロメロになるのは仕方がない。そういう生き物なんだ。FPSやってるオタクなんてみんなそんなもんなんだ。

さまざまな事情から現代戦FPSも数が減り、そもそもマルチプレイヤーFPSという産業自体が極めて激しい隆盛と没落を繰り返す昨今の情勢で、ここまでマニアックなゲームが一定の評価と人口を保っていること自体、喜ばしいことなのだと思う。プレイヤーを徹底的に突き放したそのシステムに魅入られる人々が後を絶たないのは、その狂気が生み出した圧倒的な実在感によるものなのではないだろうか。

が、上述したストリーマーやフレンドたちと、この傑物に今こうして恋文をしたためる私には、一つ大きな違いがある。

私は、このゲームをプレイできない。

たぶん、一生かけてもできない。

PCスペックの問題ではない。クレカが使えないとかでもない。ビデオゲームでも人を殺せない宗教上の問題などでもない。現に私はいつでもこのゲームを起動できるし、なけなしのアーマーとリアサイトのないADARを背負って、いつでも銃声さざめく夜のCustomsへ駆り出すことができる。…できる…できるんだけど…

私は、気が弱い。気が狂うほどに気が弱い。人生で一度もお化け屋敷に入ったことがないし、ホラーゲームを試しにやったらぬいぐるみに襲われた瞬間椅子から部屋の端まで吹き飛んだし、こちとらデスノートが見たいだけだってのに急に流れ出すホラー映画の予告編には、子供心に殺意を覚えた。

だが、Tarkovに潜んだ恐怖は、”ホラー”を冠するいずれのメディアにも属さない唯一無二のものだ。死んだら所持品をロストするとか、装備差の関係上どうしても勝てない場面があるとか、そういう”喪失”への恐怖は、特に取り沙汰されることが多い。

しかし、私の感じた恐怖は違う。

死だ。私は結局、27インチのモニターに映ったバーチャル空間ですら、死ぬのが怖くてたまらなかったのだ。

死ぬのは、怖い。この青い空の下、生けとし生ける畜生共すべて、死ぬのが怖くて生きている。何億年前から五体がこの形になるまでの長い間で、我々は死という未知に触れないために最善を尽くし、あるいはそれを不都合なものに与えるために歩んできて、その歩みの一つが戦争になり、その戦争が娯楽になって、一度きりだったはずの死はいつしか、殺した数と天秤に乗せて量るための重しと化した。

銃声はそこらで鳴り響いていて、レーダーにはそこかしこに赤い点が現れ、戦車の主砲に吹き飛ばされようが除細動器さえあれば元気いっぱいなカジュアルFPS育ちの自分には、撃たれて死ぬということはしょうもないバッドラックでしかなかった。Deathというものは、自らの実力という名のプライドへのかすり傷であって、失敗から学ぶべき対人FPSにおいては、もっとも恐れてはならないものであった。

ロストのリスクを伴うTarkovであっても、恐らくそれは例外ではない。初心者はSCAV仕立てのオンボロSMGを携えて、ただInterchangeの外周なり、Customsの道路なりに斃れ、感覚と知識で副交感神経系を鍛えることこそ、上達への近道に他ならないのだから。

それはわかってる。みんな言ってる。そもそも他プレイヤーとの取引が解放される10レベルまではチュートリアルみたいなもんで、ガチガチの装備とモチモチの知識を備えた先行プレイヤーたちに、Kedrを持った迷子一匹が敵うべくもないわけで、死を覚悟でヘラヘラ笑いながらプレイするくらいの心持ちでやれればいいんだ。そう、そうなんだけど…

これだけ口先の弁論を並べ立ててみても、私は死ぬのが怖い。死ぬのが怖くて、出撃ができない。銃弾を身に受けて逝去するというお約束の流れが、こんなにも恐ろしくてたまらないのだ。

問題は、その向けられた銃口のいずれもが、私のなまくらな知識では、何一つ予測がつけられないというところにある。目の前の草むらの中、薄暗い森林の影、あの突き当りの部屋の奥、どうにか辿り着いた脱出口の車の荷台にだって、「居る」と思えば止まらない。パラノイアが収まらない。

いつ、どこで、誰が私を付け狙っているとも知れず、自分の足音がうるさくて、どこかで銃声は鳴っていて、私が愛したそのリアリティのすべてが、恐怖となって身に降りかかってくる。

やればやるほど、どこかの茂みから急に撃ち抜かれてその命を落とすほど、”READY”の文字を押せなくなって、いざレイドに勇みよく出て行っても、スポーン地点で身動きが取れなくなる。

いつしか起動時間の殆どはスタッシュを眺めることに割かれ、チェックマークのついたFlash Driveを眺めては「レベル10だったらなあ…」とつぶやくことしかできなくなってしまった。

それでも、いつかは、いつかはMDRライフルにサプレッサーを付けて、夜のReserveをナイトビジョンを装着して練り歩いてみたい。森の中の木々に紛れて、私のように迷える初心者をスナイパーライフルで一方的に撃ち抜いてやりたい。

抱いた夢は遥か遠く、このゲームそのものを忘れてしまおうにも、Twitchのストリーマーたちも、Twitterの人々も、どこかで誰かがレイドに勤しんでいて、その様子を指を咥えてみていることしかできない今の現状に、どうにもやりきれない気持ちを抱える日々である。

…いや、明日、明日こそは絶好のコンディションで、Shorelineの沼地へ出向くのだ。ゴミを漁り、SCAVを撃ち抜き、きっとレベル10の景色を見たなら、惜しみなく存分に好きな銃をいじり倒して、スタッシュの最上列に眠らせてやろう。

貯めに貯めたガラクタの数々をマーケットに流すその日まで、私はこの葛藤と戦い続ける。


…今?今は配信見てるからプレイは無理かな…