見出し画像

聾学校高等部にあがれば「手話」が解禁される。それまでタブーだった手話を堂々と使っていいのだ。あまりの変わりように、気持ち悪いと私は思った。

中学部行事として、毎年秋頃に弁論大会があった。テーマには、部活動、家族、自分の聴覚障害などがあった。弁論大会の作文は、自分で家で考えて書いてくる宿題であり、少なくとも私のときは弁論大会の発表原稿を書く時間が授業で取られることはなかった。
弁論大会のテーマは、習字でくろぐろと長い白い紙に書かれ、体育館舞台の壁に、発表順に貼りだされた。審査員は、中学部の先生たちであり、舞台の正面側に椅子を何脚か並べて座っていた。発表者は、体育館舞台下の、舞台に向かって左側で椅子に座り待機していた。

発表の順がくると、1人ずつ舞台の上にあがり、教壇の上に原稿用紙をひろげ、話始めた。発表では、みな、声を出して話した。発表原稿はすべて覚えるのが基本であった。原稿用紙はひろげてはいるが、できるだけ原稿用紙を見ることなく、全部覚えて話すことが推奨されていた。
私は、自分の発表前であっても、発表者をしっかり見て、読み取っていた。他の発表を「聞く」ことは礼儀であったからだ。私は、他の発表者の話は読み取れたが、見ても全部は読み取れない生徒もいただろう。その最中、腿にしっかりつけたはずの両手の指が、時々わさわさと動いた生徒が何人かいた。私はその手の動きに気付いた。

発表が一通り終わると、先生たちの講評が始まる。発表を褒めたうえで、手がもぞもぞ動くことを注意した先生がいた。自分は手がもぞもぞしないことをひそかに誇らしく思っていた。手がもぞもぞするなんてみっともないことだと思っていた。その一方で、手が動くことはしかたない、「容認」していたふうの先生もいたので、先生たちがすべて、手が動くのはみっともない、と思っているわけではなさそうだった。

生徒か、先生か、どちらから聞いたのかは覚えていないが
「高等聾学校にいけば、弁論大会は手話でできるよ」
と聞いた。
つまり、そこでは、手話は生徒たちだけでひっそりと使うものではないということだ。学校行事のなかで、堂々と使っていいものなのだ。私は不思議な気持ちがした。
ずっと手話を否定され、みっともないと言われ、弁論大会で手がもぞもぞ動くのはみっともないと注意されるのに、高等聾学校では逆に手話を推奨される。中学まで手話がタブーだったのが、高校で「解禁」されるのだ。高等聾学校の弁論大会では、手話で発表をするのだ。
「手話」は聴こえる人から「与えられる」ものなのかと思った。

当時の私は「手話」を知らず、それを「手真似」「身振り」だと認識しており、劣ったものとしてみていた。しかし、手話そのものより、所変われば、年齢があがれば、がらりと変わるルールが、気持ち悪いと私は思った。この劇的な転回は何なのだ。まるで、戦後の教科書を墨で黒く塗りつぶすさまではないか。そのことを知ったとき、私は直感的に、高等聾学校には行きたくないと思った。

中学3年、卒業を間近に迎えた頃、別の聾学校中学三年生が答辞を手話で「強行」した、とのニュースを先生から聞いた。答辞を声だけでやれといわれたのに反発し、手話で述べたのだそうだ。
その話をしてきた先生は、「すごいね」「えらいね」といったニュアンスを乗せていたように私は感じられた。そのニュアンスが私には不思議だった。手話禁止より子どもたちの気持ちを大切にしたいということだろうかと思ったからだ。仮に、私たちが答辞を手話でやったらこの先生は理解を示し、応援してくれそうだなという気がした。また、先生の反対を押し切ってまでも使いたい引力が「手話」には備わっているのか、という不思議な思いも抱いた。当時の私は、まだ手話と出会っていなかった。
私たち中学3年生は、卒業式に手話を持ち込まず、いつも通りの声だけで平穏に終えた。同級生は、私より手話を知っていたが、授業や先生の前では手話をしない「節度」を持ち合わせていた。

卒業式のあと、私はこう思った。
もう聾学校に行かなくてもいい。
ようやく私は聾学校を脱出できたのだ。
10年以上通った、慣れ親しんだ校舎を私は見上げた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?