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マフィアとともにジャズが進化してシカゴでゴスペルが形成された1930年代

禁酒法によって、酒の密輸・密造を牛耳っていたニューヨークのマフィアは、従来の稼ぎとは次元の違う巨額の資金を手にして急速に富裕化していきました。
そして、その潤沢な資金を使って、警察や政界への賄賂を渡して、世間で大きく幅を利かせていくことになりました。

【「マフィア」と「ギャング」の違い】

「マフィア」=「イタリア系犯罪組織で、非合法・合法な手段で多大な利益を得ている集団」

「ギャング」=「アメリカの貧困層の若者を中心にした麻薬取引や強盗などをする集団」


ニューヨークは、海外からの酒の調達&国内への流通の一大拠点だったことで、多くの人材と組織力が必要とされ、ニューヨーク・マフィアは、力をつけていき大規模化&全国展開していきます。

1929年の世界恐慌による景気の悪化によって、ギャンブルや売春などの需要が減少したことでマフィアのビジネスにも大きなダメージを与えます。

【カステランマレーゼ戦争(The Castellammarese War)(1929年~1931年)】

ニューヨーク市を中心に【ジョー・マッセリア率いるマフィアファミリー】vs【サルヴァトーレ・マランツァーノ率いるファミリー】の、それぞれの権力拡大のための組織内部抗争です。
両者が多数の暗殺を行い、最終的に【マランツァーノのファミリー】が勝利して、ニューヨーク・マフィアの支配者となり、5つのグループ(五大ファミリー)に整理しました。

恐慌の始まりとともに、禁酒法を遵守する取り締まりが強化され、マフィアの収入源が減少し、内部の権力闘争が激化したとされたと考えられます。

【五大ファミリーの再編】

従来のマフィア(血縁地縁を重視する伝統主義)と、新世代のマフィア(地元・血縁にこだわらず経営を追求するビジネス主義)の間で対立が起き、後者のラッキー・ルチアーノがマランツァーノを暗殺し、五大ファミリーを再編(ファミリー間の縄張り分割や移譲は行われなかった)して、五大ファミリーを代表するボスたちが紛争解決のために話し合うコミッションが定着します。



【1933年12月5日:禁酒法廃止】
1933年3月22日:ビールや軽アルコール飲料の製造・販売を合法化する法案が成立

1933年12月5日 :アメリカ合衆国憲法修正第21条が批准され、禁酒法が正式に廃止

禁酒法廃止によって、マフィアは酒の密輸による利益を失い、巨大化した組織を維持するには多大な資金が必要です。そこで、娯楽業や賭博業、娯楽産業やエンターテインメント業界に注力していきます。

(ニューヨークから出て全米(特にラスベガスやフロリダ)へ進出していくマフィアも現れます。)

マフィアは、音楽産業の黎明期から音楽の世界に関わっており、アフリカ系アメリカ人のミュージシャンたちを支援することで、自らの権益を守りながら音楽産業を発展させていきました。

ショービジネスの世界と密接に結びついており、その影響力は産業全体に及んでいたと言えます。

ジャズの主戦場はニューヨークへ


ニューヨークのクラブ・シーンは活況を呈し、合法的にアルコールを提供することができるようになったことで、新しいクラブやレストランが次々にオープンしました。

特にニューヨークのハーレム地区には、黒人音楽家たちが集まって演奏するジャズクラブが数多く存在し、黄金時代を迎えました。

また、白人ジャズ・ミュージシャンたちも、ハーレム地区を訪れて演奏するようになりました。

『ジャム・セッション(Jam Session)』

ギャング支配下のクラブやバーで働く、ジャズ・ミュージシャンたちは、しばしば営業時間外に「ジャム・セッション」を行って、新しい演奏技術を磨いたり、他のミュージシャンとの交流を深めたりするようになりました。

しかし裏では、ギャングたちは、黒人ミュージシャンへの「見せしめ」として【リンチ】が行って、強制的に演奏させることもあったと言われています。

アメリカ音楽史において「ジャム・セッション」は、黒人ミュージシャンたちの間で自然発生的に生まれた創造活動で、その後のジャズやブルースなどの発展にも大きく貢献したとされています。

ゴスペル誕生

1920年代以降の「黒人教会」の礼拝では、聖書の朗読や説教の他に、教会内に音楽ディレクターや合唱団が設立され、伝統的な黒人霊歌などの音楽・歌唱が行われていました。
また「黒人教会」が中心となって共同体を築き上げて、アフリカ系アメリカ人の自己表現やアイデンティの確立、社会的・経済的な発展を目指しながら、教育や福祉などの社会貢献も行っていました。

“ゴスペル音楽の父”:【トーマス・ドーシー(Thomas A. Dorsey)】

1899年:ジョージア州アトランタで生まれる
1916年:ピアニストとして地元のジャズバンドでプレイするようになる
1921年:シカゴに移り、ジャズの世界で成功を収める。
1928年:タンパ・レッドと共同の楽曲「It’s Tight Like That」が大ヒット

1932年: ドーシーの妻と新生児が同時に亡くなる
この悲劇的な出来事がドーシーの人生に大きな影響を与え、彼は信仰に目覚め、ブルースを止めて、シカゴの第一バプティスト教会の音楽ディレクターに就任して、宗教音楽作曲家になります。

当初は、悪魔の音楽「ブルース」などの世俗的なものを教会に持ち込んだとして、一部には非難されましたが、数千曲のゴスペル・ソングを書いて、ゴスペルを発展させる、きっかけ作りをして、商業化させた最初の人として「ゴスペル音楽の父」と呼ばれるようになりました。


“ゴスペルの女王”:【マヘリア・ジャクソン(Mahalia Jackson)】

1912年:ニューオーリンズで生まれる
1927年:シカゴへ出稼ぎのため移動。バプティスト教会の聖歌隊に加入。
聖歌隊でその実力を発揮し始めたマヘリアの噂はどんどん拡がり、プロシンガーとしての人生が始まる。
(この頃トーマス・ドーシーに出会う)

1937年:ソロ曲「God’s Gonna Separate the Wheat from the Tares」リリース
1946年:アポロレコードと契約し、翌年「Move On Up a Littler Higher」リリースして、たちまちミリオンセラーの大ヒット

1950年:ゴスペル・ミュージシャンとして初のカーネギー・ホールでの公演


トーマス・ドーシーが作った歌を歌って世界中に広めていった、生涯に渡って、ゴスペルに命を捧げてきた正真正銘の女王であり絶対的な存在。



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