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ムーブメントから50年近く経っても色褪せない 『グラム・ロック』 スピリット

『グラム・ロック』が生まれた背景


1966年ごろにヒッピーを中心にアメリカ西海岸に始まった『サイケデリック・ムーブメント』はイギリスなどの先進国にも波及し世界中に広がっていった。

ロック含めた音楽界は、”幻覚症状を引き起こす” 薬物使用は“当たり前”で、この薬物による幻覚の世界を表現したロックは『サイケデリック・ロック』と呼ばれていた。

サイケデリック(psychedelic)とは?

LSDなどの服用によって幻覚状態にあること。その際に経験する幻覚と同様な,原色的で刺激の強い絵画,音響などもさす。

<『サイケデリック・ロック』と呼ばれた代表的なバンド>

グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ピンク・フロイド(シド・バレット時代)、ドアーズ 

一時はビートルズやローリング・ストーンズもクリームも『サイケデリック・ロック』に傾倒していた。

この『サイケデリック・ロック』は、イギリスにおいて“オルタモントの悲劇”を境にして、“ブリティッシュ・ロック”の70年代を特徴づける

『ハード・ロック』 『プログレッシブ・ロック』 『グラム・ロック』 

という3つの大きなムーブメントへと進化していった。


<極めて大雑把な説明>

『ハード・ロック』

大音響でエレクトリック・ギターをリード楽器としてソロを演奏した骨太な、ロックの代名詞と言える王道のロック・スタイル。

1970年には、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ディープ・パープル、ユーライア・ヒープ、ウイッシュボン・アッシュ、フリーといったバンドによって『ハード・ロック』の呼称が定着した。


『プログレッシブ・ロック』

実験的・革新的なロックとして、それまでのシングル中心のロックから、より進歩的なアルバム志向のロック。

キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエス、EL&P、ジェネシスが5大プログレッシブ・ロックバントと呼ばれていた。

『グラム・ロック』

中性的なファッションやメイク、グルーブ感あふれるビートや、ポップなメロディーな演奏スタイル。

この3つのムーブメントで一番短命であったが、後の音楽・ファッション・カルチャーに大きな影響を与えた『グラム・ロック』について論じる。


『グラム・ロック』とは


『グラム・ロック(glam rock)』のグラム(glam)は、魅惑的であることを意味する英語の"glamorous"をもじったもの。

ヒッピーの“自然回帰”とは真逆で、“現実逃避”した「人工的」で「未来志向」というイメージで、一大センセーションを巻き起こした。

グラム・ロッカーは、煌びやかでゴージャスなコスチュームとド派手なメイクのトランスジェンダーなスタイルで、強烈で奇抜で芝居がかった大仰なパフォーマンスを行った。

『グラム・ロック』の全盛期は1970年から1973年までの3年足らずであったが、その後のパンク、ニューウェーブ、ニューロマンティクス等のムーブメントにつながっていった。


代表的な3大アーティスト(独断)


マーク・ボラン(Marc Bolan)1947年9月30日 - 1977年9月16日

グラム・ロック初の本物のスター。1970年を迎える頃、マーク・ボラン(Bolanは、Bob Dylanを短縮した造語)と改名。

1970年12月に「T.Rex」とバンド名を短縮し、1971年に4人組のバンドになって初めてのアルバム『電気の武者』をリリース。UKチャート1位の大ヒット。

シングル・リリースした「ゲット・イット・オン」 が大ヒット(全英1位・全米10位)


1972年:『ザ・スライダー』(全英4位・全米17位)

1973年:『タンクス』(全英4位)

と立て続けにアルバムをリリース。

スタジオ・アルバムには未収録であるが1973年にシングル・リリースされた「20センチュリー・ボーイ」は、初来日コンサートツアー中の1972年12月3日、東京赤坂にあった東芝EMI第1スタジオでレコーディングされた。

1977年9月16日、自動車事故(愛人のグロリア・ジョーンズが運転)で死亡。

マーク・ボランが「僕は30歳まで生きられないだろう」と語っていたのは有名な話。(彼が亡くなったのは、30歳の誕生日の2週間前)

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デビィッド・ボウイ(David Bowie)1947年1月8日-2016年1月10日


言わずもがな、グラム・ロックの先駆者であり、音楽・役者として世界的名声を得るマルチ・アーティスト。

1969年:『スペイス・オディティ』(前年公開されたスタンリー・キューブリック監督作『2001年宇宙の旅』をモチーフに)


1970年:『世界を売った男』

1971年:『ハンキー・ドリー』

1972年:『ジギー・スターダスト』
架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗って世界中でコンサート(この時期の衣装は山本寛斎の作品もある)


1973年:『アラジン・セイン』
1973年7月3日のイギリスでの最終公演で、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」永遠に葬り去られた。

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ブライアン・フェリー(Bryan Ferry)1945年9月26日 -

 
1971年にロキシー・ミュージック結成。

1972年:『ロキシー・ミュージック』
デビィッド・ボウイの「ジギー・スターダスト」英国ツアーのサポート・アクトを務めた。

1973年:『フォー・ユア・プレジャー』
バンドと並行してソロ活動も開始し、全曲カヴァーのソロ・デビュー作『愚かなり、我が恋』発表。

1974年末、ロキシー・ミュージックの活動の合間を縫って、初のソロ・コンサートを行う。

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1974年:『カントリー・ライフ』

シースルーの下着を着けた女性2人というジャケットが物議を醸す。

1975年:『サイレン』

ジャケットに写っている女性モデル(ジェリー・ホール)は、当時ブライアン・フェリーの恋人で、後年ミック・ジャガーと結婚。



ファッションへの影響

『グラム・ロック』は、音楽にとどまらずファッション業界にも大きな影響を与えた。

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<ファッションの特徴>

●  ラメやサテン、スパンコールの“キラキラ”コスチューム
●  ロンドンブーツ
●  パンタロン、スキニーパンツ
●  サテンやベロア素材、ファーやフェザーのストール
●  メッシュやカラーリングされたヘアー、ウェービーなロングヘアー

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いつの時代においても常に密接な関係を築いてきたロックとファッション。
現代のロックファッションは、さまざまなジャンルが存在しているが、『グラム・ロック』は過去から現在へ着実に受け継がれている。

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新しいロック・ジャンルへの影響


『グラム・ロック』はアメリカではそれほど成功をおさめられなかった。

アメリカで商業的な成功を収めたのは

アリス・クーパー、ニューヨーク・ドールズ、ルー・リード、イギー・ポップ

といった顔ぶれだろう。

ランナウェイズのデビュー曲「Cherry Bomb」は『グラム・ロック』の影響が感じられる。


『グラム・ロック』は、後の『パンク』や『ニューロマンティック』へ多大な影響を与えたのは間違いない。

『パンク・ロック』

① ニューヨーク・パンク

パティ・スミス、テレヴィジョン、ラモーンズ、トーキング・ヘッズ

② ロンドン・パンク

セックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムド、ザ・ジャム、ストラングラーズ
(セックス・ピストルズのアメリカ進出は成功せず、アメリカのチャートで成功を収めたのは、ザ・クラッシュ。)

髪を逆立たせ、安全ピン、ワッペン、破れた細いジーンズや古着のTシャツ、革ジャンなどのファッションも若者の間で流行して、絵画などの芸術にまでに広がっていった。


『ニューロマンティック』

デュラン・デュラン、カルチャー・クラブス・スパンダー・バレエ、ヒューマン・リーグ


『ニューロマンティック』の音楽性は様々だが、中世ヨーロッパ的な衣装を身に纏い、派手な化粧をするなどのファッションは明らかに『グラム・ロック』の影響が感じられる。


日本のロックシーンへの影響は計り知れない


ジュリーこと沢田研二、忌野清志郎、は完全に影響を受けたアーティストだろう。

LUNA SEA、L'Arc~en~Cielなどのヴィジュアル系バンドにも影響を与えた。


海外セレブもグラム・ロックを取り入れている


ケイト・モス。2014年のブリット・アワードでは山本寛斎の衣装を着て、ボウイの代理で賞を受け取った。

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2016年のグラミー賞で、ジギー・スターダストをモチーフにした衣装で追悼パフォーマンスを披露したレディー・ガガ。



ムーブメントから50年近くが経っても、各種音楽・ファッションにも多大な影響を与えて、色褪せることのない魅力を放っている『グラム・ロック』“スピリット”




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