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オウムの人たちの気持ちがちょっとわかるんだよねって話

僕は結構オウムに詳しい。近所にオウムの残党が住んでいたから、いやでも興味を持った。高校生くらいまでは犯罪ゴシップとして消化していたが、大学生になってからもう少し深く考えられるようになった。

僕の個人的な一つの結論は、オウム事件は「狂った集団の起こした例外的犯罪」ではない、ということだ。信者の大半はごく普通の人間だった。まともな家庭に生まれ、しっかり勉強して名門大学に在籍していた人も多い。そうでない人でも、まともに働いており、人を傷つけたことなどない人がほとんどだった。

一歩間違えば自分もオウムに入って、犯罪行為に加担していたかもしれない、とまでは思わない。だが彼らと自分とで何が違うのかは全くわからない。彼らは皆、何者にもなれないことを恐れていたんじゃないかと思う。自分もそうだったし、今でもそうだ。

上祐史浩は早稲田の大学院を出て、JAXAに入社するも一ヶ月で退職しオウムに出家する。「自分の人生の終わりが見えたような気がしたから」、それが彼の退職の理由であり、出家の理由であった。(ちょっとうろ覚えだけど)

同じく早稲田の広瀬健一も「技術開発をしても直ぐに新しいものに取って代わられ、商品価値が失われたり、軍用兵器に転用されたりする」と、無常観を感じていた。彼は学部を主席で卒業し、大学院でも優秀な成績を納めたが、オウムに出家してしまった。

幹部や一般問わず、オウムの信者にはこんなエピソードがよく出てくる。自分を何者かにしてくれる答えを求めてたどり着いたのがオウム真理教であり、麻原だったんだろう。彼らは自分の自我を差し出し、麻原の自我と一体化した。麻原の自我はヴァジラヤーナのような宗教的物語を"借り"ながら、血みどろの戦いを求めていった。その果てに一連のオウム事件が生まれた。

きっと何者にもなれないお前たちに告げる

正直、自分はこの信者たちの告白にすごく共感してしまう。特にしたくもない仕事をして、気づいたら年をとっていくのかもしれないと考えるとすごく不安になることがある。そんなときに簡単な答えを与えてくれる人やものが現れたら、自分だってなびくかもしれない。

「社会は間違ってるしいつか滅びますよ。衆生のために修行をして世界を救いましょう」。こんな馬鹿な言葉に騙されるかよと思うかもしれない。人間は歴史や宗教、国家といった大きな物語の前では簡単に自我を失ってしまうが、それらのストーリーが語る内容はいつだってこの程度のものだ。

そういうものに簡単に自我を差し出してはならない。人間はいつだって個人としてあるべきで、それらを封じる価値観の虜囚になってはならないとわかってはいるが、じゃあどうしたらこの不安感がなくなるんだよとも思う。自分の人生がこのまま続くことに対しての不安や、きっと何者にもなれない不安を抱えながら生きていくより、オウムみたいな価値観に染まって自分の人生に絶対の自信を持つことができたら楽なんだろうなと思う。だから、上祐とか広瀬みたいな信者たちの気持ちもわかってしまう。

この不安感は仕事に慣れたら消えるのか?愛する人や子供が生まれたら消えるのか?よくわからないまま、僕の生存戦略は続いていく。


輪るピングドラム、やっぱ名作だわ。

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