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【読書記録2】ジョン万次郎は米国で野球を見たか? 「野球とクジラ カートライト・万次郎・ベースボール」

ジョン万次郎こと中浜万次郎は、14歳だった1841年(天保3)に土佐国(現在の高知県)の宇佐浦から漁に出て漂流し、アメリカで生活した。帰国がかなったのは1851年(嘉永4)である。

この10年間、アメリカでは野球(ベースボール)にとって決定的な出来事が起きた。

1845年、ニューヨークで初の野球チーム「ニッカーボッカーズ」が結成された。銀行員でボランティアの消防団員でもあったアレキサンダー・カートライトが中心となって結成したもので、同年9月23日に制定したとされる20カ条に及ぶ最初のルールは、現代の野球にも通じる部分が多い。

翌1846年にニッカボッカーズは、ホーボーケンのエイジリアンフィールドでニューヨーカースと初の対外試合を行っている。

万次郎がアメリカで過ごした月日は、野球が誕生した時期と一致する。

そして佐山和夫著「野球とクジラ カートライト・万次郎・ベースボール」(河出書房新社)によれば、ニッカボッカーズを結成したカートライトと万次郎には縁があるという。

年表にまとめてみたい。主に、同書と「私のジョン万次郎 子孫が明かす漂流150年目の真実」(中浜博=小学館)を参考にした。◇は万次郎の動き、◆は野球の動きである。

1827年(文政10)
◇ジョン万次郎こと中浜万次郎が土佐国幡多郡(高知県土佐清水市)中ノ浜に生まれる
1841年(天保3)
◇万次郎の漂流が始まる。鳥島での無人島生活を経て捕鯨船ジョン・ハラウンド号のウィリアム・ホイットフィールド船長に救助され、ホノルル上陸。万次郎だけホノルルを出港し、捕鯨を続ける
1843年(天保14)
◇万次郎、フェアヘブン(マサチューセッツ州)生活。オックスフォード小学校で学ぶ。その後、スコンチカットネックへ移り、スコンチカットネック・スクールで学ぶ
1845年(弘化2)
◆アレキサンダー・カートライトがニューヨークで野球チーム「ニッカーボッカーズ」を結成。9月23日に最初の野球ルールを制定。
1946年(弘化3)
◆6月19日、ニッカーボッカーズはホーボーケンのエイジリアンフィールドでニューヨーカースと初の対外試合を行う。
◇万次郎、フランクリン号でニューベッドフォードを出港
1947年(弘化4)
◇万次郎、グアムからホノルルへ
1948年(嘉永元・弘化5)
◇万次郎、マニラ寄港。その後ホノルルへ。
1849年(嘉永2)
◇万次郎を乗せたフランクリン号がニューベッドフォード帰港。その後、日本への渡航費を手に入れるため海路でカリフォルニアへ。
◆ゴールドラッシュで、カートライトがカリフォルニアを目指す。途中でベースボールを広めていく。サンフランシスコ到着後、ハワイ・ホノルルへ。
1850年(嘉永3)
◇万次郎、サンフランシスコ着。サクラメントを経て金山に入り、銀600ドルと銀塊を手にする。その後、ホノルルで帰国準備をする。デイモン牧師が発行する「フレンド」の11月1日号には万次郎の特集。
1851年(嘉永4)
◇万次郎、「アドベンチャー号」でホノルル出発。琉球(沖縄県)の摩文仁海岸に上陸。その後、鹿児島から長崎へ。長崎奉行の取り調べを受ける
1852年(嘉永5)
◇万次郎、高知・中ノ浜に帰着し、母親と対面する。
◆カートライトが捕鯨船のエージェントととして独立。ニューベッドフォードの捕鯨業者ジョン・ハラウンドと手を組む。
1853年(嘉永6)
◇ペリー来航により、万次郎は幕府直参となる。
1860年(安政7)
◇万次郎、咸臨丸でサンフランシスコへ。
1866年(慶応2)
◆初のプロ野球団「シンシナティ・レッド・スキンズ」が誕生。
1870年(明治3)
◇万次郎、アメリカ経由ヨーロッパへ。
1871年(明治4)
◆横浜で野球の試合。外国人居留民と米国軍艦コロラド号が対戦。
◆平岡熙が渡米して野球を覚える
1872年(明治5)
◆日本にベースボールが伝わる。アメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが生徒に教える。
◆ロイヤル江戸劇団が米国で試合をする。軽業師の一団で、6月7日にワシントンで大リーグの前身にあたるナショナル・アソシエーション所属の球団オリンピックスと対戦。
1876年(明治9)
◆大リーグで「ナショナル・リーグ」が発足
◆東京で開成学校と外国人チームが対戦。
1878年(明治11)
◆日本初の野球チーム誕生。アメリカから帰国した平岡熙が「新橋アスレチック倶楽部」を結成。
1892年(明治25)
◆カートライトが死去。
1894年(明治27)
◆中馬庚がベースボールを「野球」と訳す
◆1898年(明治31)
◇万次郎、脳溢血で死去。

カートライト、万次郎ともゴールドラッシュでカリフォルニアへ行き、ハワイ・ホノルルにも渡っている。また、万次郎は、ホノルルで船員のために発行されている新聞「フレンド」に取り上げられているが、これを書いたデイモン牧師は、カートライトと親交があったという。

こうした事情を踏まえ、「野球とクジラ」では以下のように書いている。文中の「ワン・オールド・キャット」「タウン・ボール」などは、野球の原型といわれるスポーツである。

万次郎は、そこで子供たちの遊びを見てはいなかったろうか。子供の遊びといえば、あのワン・オールド・キャットか、トゥー・オールド・キャットか、スリーか、フォア。あるいはタウン・ボールもあったろう。いずれにしても、少なくともそのうちのどれかを、目にしてはいなかったろうか。

それらはまだベースボールへの進化を見てはいない。この時期、カートライトはすでに消防団で活躍しているが、まだその古い球技の野球化には手をつけていない。すべて原型のままのボール・ゲームだ。それを日本から渡っていったばかりの万次郎が、そのマサチューセッツの海岸町で見ていて不思議はないと私は思う。いや、単に見ただけではなく、プレーをしていてさえ、おかしくはなかったのではないか。

「野球とクジラ カートライト・万次郎・ベースボール」

万次郎がベースボールに触れたという明確な証拠はないようだ。136ページに、こうある。

ジョン万次郎の四代目であり『私のジョン万次郎』(小学館)を出版された中浜博氏(前中日病院外科部長)にお聞きしたところ、残念ながら、特にその証拠となる事実はないとのことだが、それはこの球技がまだゲーム(あるいは試合)としての定形を持たず、遊びの段階であって、彼はこれに特に記録する価値を認めなかったからなのかもしれない。

「野球とクジラ カートライト・万次郎・ベースボール」

それではジョセフ・ヒコこと濱田彦蔵はどうかと、調べてみた。ジョン万次郎の数年後にやはり船で漂流した末、アメリカに渡った。フランクリン・ピヤーズ大統領、ジェームズ・ブキャナン大統領、そしてエイブラハム・リンカーン大統領にも面会を果たし、帰化してアメリカ市民権も取得している。

2冊に及ぶ「アメリカ彦蔵自伝」(ジョセフ・ヒコ=平凡社)を読んだが、残念ながら野球に関わるような部分は見つけられなかった。

しかし、アメリカの文化に触れた様子は描かれている。1858年(安政5)のことである。

七月五日は蒸気船運航記念日だと広告されていたが、「七月四日」がたまたま日曜日になったので、五日は独立記念日のお祝いがあり、出港は六日まで延期された。ブルック氏と私はホテルで昼食を取ってから、観兵式を見に出かけた。夜はセント・ジョンとローラ・キーン劇場へ行き、喜劇というものをはじめて見た。「悪口学校」という劇で、おかげでひと晩じゅう笑いがとまらなかった。

「アメリカ彦蔵自伝」

鎖国時代に漂流して異国に渡り、言語が通じず、また帰国もかなわない中での生活とあり、生き抜くことに必死だっただろう。ベースボールやタウンボールどころではなかったに違いない。

しかし、佐山氏が記しているように、近隣住民とのコミュニケーション…現地にとけ込むための社交の一環として触れ合う機会があった可能性は大いにあるだろう。


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