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金足農、昭和にタイムスリップ「秋田県民にとってシマさんは長嶋さんと同じだ」

秋田の繁華街、川反のスナックでの思い出がある。もう約40年前…1990年代前半の話である。

私が日刊スポーツの記者だと知ると、高校野球ファンという常連客のAさんが言った。

「オレさ、日刊スポーツのファンで何十年も読んでいるんだけど、どうしても文句を言いたいんだよ」

入社したばかりの若手記者だったので「私で改善できるかは分かりませんが…」と恐る恐る聞くと、Aさんは言う。

「金足農業の嶋崎久美監督いるだろう? オレはあの人が大好きなんだ。でも、日刊スポーツはなんで〝島崎〟って書くの? シマさんは山鳥の〝嶋〟でしょう」

当時の日刊スポーツは「島」に統一するというルールがあった。ただし、1993年(平5)に巨人監督に復帰した長嶋茂雄だけは、本人の希望もあって特別に「嶋」と表記していた。

笑ってしまうのだが、ミスターは「長嶋茂雄」と書き、長男は「長島一茂」と表記するという、摩訶不思議な社内規定があった。だから、嶋崎監督も「島崎監督」になってしまう。そう説明した。

すると、黙って聞いていたBさんが口を開いた。

「秋田県民にとって、シマさんは、長嶋さんと同じぐらいスゲえ人だ。長嶋さんが〝嶋〟で認められるなら、シマさんも〝嶋〟じゃなきゃ、おかしい」

言い出しっぺのAさんも続いた。

「そうだ。秋田県民にとって、シマさんは長嶋さんと同じだ。英雄だ」

聞いていた私もそんな気がしてきて、「そうですね。明日から〝嶋〟で書いて原稿を出し続けます」と言って、その場にいた何人かで乾杯して、また飲んだ。言葉通りに「嶋」で出したが、すべて赤字として「島」に直されていた。

嶋崎久美監督は1972年(昭47)6月から金足農業高校の野球部監督に就任し、1度の退任を挟み計34年間で春夏7度の甲子園に出場した。

甲子園の初出場は1984年(昭59)センバツで、その夏にはベスト4に入り、準決勝で桑田真澄、清原和博のKKコンビを擁するPL学園と戦い、2-3とあと一歩のところまで追い詰めた。

2-1とリードして8回を迎えたが、1死から4番清原に四球を与え、続く5番桑田に左翼ポール際へ逆転2ランを浴びた。

敗れはしたものの、無名だった地方の農業高校が、全国に名高いエリート軍団と互角に戦ったことに、多くの人が心を躍らせた。秋田弁を隠すこともなく監督インタビューに応じる嶋崎監督の姿は、秋田県民にとって、まぎれもなく英雄だっただろう。

今、私が手がけている連載「金足農、旋風再び」は、第5回から昭和にタイムスリップして、嶋崎監督の時代を振り返っている。

人気ドラマと同じように「不適切」なところがあるかもしれないが、「こういう時代もあった」という昔話として読んでもらいたい。

もしかすると、未来へのヒントがあるのかもしれないと思う。