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悪い習慣

私が10代後半頃の事。
日本語学校にいた事があり、海外の高校生達が日本で一ヶ月過ごすので彼らの面倒を見る、というイベントが夏の間に発生した。海外の、としているのは、アメリカだけに限らず、私の周りでは常時36か国の人間が溢れかえっていたからだ。youtubeやネットの普及もあり、今では色々な国の文化がシェアされているのでそんなに珍しい事でもなくなったが、まだそんな物もなかった時代の事。彼らが初めて訪れた日本で最初に驚いたのは自動販売機が町中にある!という事で、皆大はしゃぎでカメラを構えていた。24時間店があいてる!を珍しがった子もいるし、トイレに入っても、高性能だ!と驚き、足元が完全に見えないの!だとか、トイレから水が出てお尻を洗ってくれるのよ!と国の家族に電話している子もいた。

彼らが見る物は目新しさに満ちていて、まだ若かった私は、そんなに驚くような事なの?!と、それをとても面白く眺めていた。マクドナルドに連れて行っても、てりやきバーガーだとぉ!?な感じはとっても新鮮で、私達からしてみれば、シナシナになったレタスやべったりのマヨネーズがそんなに歓喜するような事なのか……だったのだが、頼んで渡してあげると、食べた事のない味だけどくそみたいに美味いな!と大喜びした。

どこかの国の子は歩く度にカメラを取り出して、あの花はなんていうのだ、や、電柱から次の電柱までの間が一時間もかかるような時間の使い方をし、そうした普段私が簡単に通り過ぎてしまうような場所から動かなかったし、もう全てが、なんてこった!の大騒ぎだった。

ある日の朝、中の一人の女の子が私を呼んでいる、と、別の子が伝えに来てくれた。部屋に行ってみると、泣いている。ホームシックなのかな?と思ったら、私……悪い病気にかかってしまったかも……死ぬかも……と言う。

何があったのかを尋ねたら、そっと自分のふくらはぎを差し出して、見て欲しい、との事。その時は、流石の私も、これは悪い病気かも!!と焦った。その状態になるにはある程度の時間があったはずで、何故周りに言わなかったのか、を尋ねたら、同じ部屋の子は白人だし、黒人が悪い病気を持ってるって噂するかもしれないから、と言った。死ぬかもしれない一大事にそんなバカみたいな事言わないでしょう!?と思ったものの、後には一部で本当にそんな話も沸いて出ていたから、人種差別は侮れない。私が馬鹿馬鹿しいと思うような事でも、他人にとったら……な部分もあり、逆もまた然り。彼らはまだ若かったので、親の受け売りで成長するし、仕方のない部分でもあったのだけど。

その後、病院に連れて行き、診察の結果、蚊にさされただけだったのだが、なんの抗体もなく日本の蚊に初めて刺された為に、ああなった、との事。
ふくらはぎには、私史上、今後塗り替えられる事はないであろうサイズを持った「大人のこぶし大」程の水膨れが出来ていて、下手に破ると、ひざ下の皮が全て持っていかれてしまうのではないか、と思うくらいの大きな大きな水袋。抗体がない状態とは死を招くのかもしれない、との思いは、当時感じた事の中のひとつに入る。

私は時折、その時の事を思い出す。私達には学習能力というものが備わり、それは悲しい事にいつからか慣れに代わる。慣れは能力としては必要な事だろう。毎日初心者だったら、それはそれで仕事にならないだろうし、さっさと慣れろと一喝される。

但し、慣れでこなされていく物事には新鮮味が何ひとつもなく、その全てが当たり前となりやすいのも確かだ。日々の生活なんて特にそう。今更、自動販売機をみても、彼らのように、これは!なんて事だ!なんて思わない。そうしてそれらを当たり前の事として流してしまっている事が、生活の中で実に多い。

失ってみて、それは当たり前の事ではなかったのだ!と気づいても、遅い。当たり前の日常、そこには安心があったとしても、心から安心しきってしまうには、私は色々を取りこぼしていないのだろうか。そう考えるだけで、物の見方が変わる。

そもそも当たり前に感じる事は、平凡であり安心感もあるから、居心地がよい。反面で、すぐの変化が見て取れないから、とても退屈な物でもある。実は刻一刻と変化しているのに、気づいていないのは自分だけで、その上で「面白くない」と口にしてしまう私は、鈍感すぎやしない?
もし、私が私ではなく、別の第三者だったとして、何かがあって声をかけた時『そんなんいつもの事じゃん』と言われたら、デリカシーのない奴だな、と思ってしまう。私達は慣れから来るそれを、平気でしてしまっている事も多い。

だから、子供の成長だったり、誰かが一緒に歩んでくれる事だったり、そうした微妙な変化に何一つ気づかずに、当たり前の事として受け取ってしまいそうな時には、その日々を思い返すようにしている。デリカシーのなさは色気のなさだとも思っているし。

昨日通り過ぎた花はまだ咲いているだろうか、あの人にありがとうって伝えてないな、好きだよって言ったっけ、等々。していない事が山ほどある。

当たり前の対義語は有り難しだって、皆さん、知ってた?
有難うって言葉は、本来ならあり得ない事で、奇跡的な事なんだろうなぁって思いながら過ごした方が得である。

面白くないなーという毎日をお過ごしの方は、きっといつもの事だと捉えているだけで、よくみると全てが少しずつ変化しているはず。

この世にも私の周りにも、何一つとして当たり前なんて存在しないんだろうなって話でした。生きてる内に出来る事って、きっと色々、あるはず!

「あぁ……また今晩の献立を考える時間かぁ」
そんな事を思いつつ、これを書いていて、
反面、いつか台所に立ちたくても立てない日も来るんだろうな、や、これで悩めるのってそれを食べてくれる人がいるって事じゃん!それって最高じゃない?と思いながら、苦手な献立構想タイムの視点をスライド。奮い立たせる。色々が通り過ぎてから、後悔したくないのよね。

当たり前、は、きっと、存在しない。
よーし、今晩も、腕ふるうかな☺それでは、また。

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