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五・一五事件と水戸学

 五・一五事件は青年将校と民間人の結集による直接行動であった。津田光造が著した『五・一五事件の真相』には、青年将校、橘孝三郎率いる愛郷塾、井上日召率いる血盟団が結集する上で水戸学の國體思想が重要な役割を果たしていたことが示されている。同書はまず、発端となった水戸学再興運動の台頭について述べる。中心となったのが雨谷毅・菊雄親子だ。

 〈血盟団と農民決死隊とを動員させたるも一つの大なる力は、実に水戸学研究会の創立とその強化拡大運動である。義公の精神たる尊王と農本主義の二大綱領を高く掲げて昭和二年から五年の八月頃まで大いに活動した。それがまた重大な刺激をあたへたものである。
 昭和三年の春『水戸学を再検討、再建せよ』との叫びが、心ある青年たちによつてあげられた。水戸には義公がゐる、義公は水戸の大なるほこり、名誉である、水戸学は尊王農本の大精神に立つて資本主義経済機構のもとにあとかたもなくふみにじられた日本を真に救ふものでなくて何か。水戸学を再検討し義公精神を再建せよといふ叫びは、つひに水戸学研究の権威として当時水戸彰考館長たる雨谷毅を中心として一ケ月数回の会合を持つに至り、会の名も新水戸学研究会とつけたのである。
 雨谷武の息にして当時帝大文科に在学中の菊雄は父にもまさる水戸学研究家で、すでに早く一方の権威でもあつた。で、会の方はこの菊雄が牛耳り、父毅が後見役といふ形であつた。会員はそのころ十四、五名から二十名であつたであらう。
 その頃、北京革命に参加した杉浦省吾が郷里の水戸にかへり雨谷方に寄寓してゐたが、彼はこの新水戸学研究会を一躍街頭に進出せしめんことを同志にすすめ、印度の革命家ラス・ビハリ・ボースの紹介でもつて満川亀太郎を雨谷菊雄に紹介し、これをもつて中央の愛国主義団体との関係連絡を成立せしめることになつたのである。
(中略)
 昭和三年の春新水戸学研究会は街頭進出の第一声を県公会堂であげることとなり、峰田信吉が『義公について』、横山健堂が『義公の真価』、石川登が『立憲政治と義公』、高木清壽が『義公と社会的考察』、満川亀太郎が『義公の精神と社会維新』について講演するといふやうなプログラムであつた〉

 こうした水戸学再興運動こそ、橘孝三郎が求めていたものだった。
 〈夏になつた八月の二十五日、義公に縁深き常盤公園内好文亭で小集会を催して中心同志の会合を行つたが、このときに水戸市外常盤村に兄弟村を建設し、農村の青年を熱心に指導してゐたのちに愛郷塾、農民決死隊を生んだその愛郷塾長の橘孝三郎が新たに出席し、水戸学研究会同志と橘とは完全に精神的提携合流をなし、意気大いにあがるものがあつた〉

 さらにこの運動は、井上日召が求めていたものでもあった。
 〈熱心な同志も集まるには集まつたが、といふてこの新水戸学研究会が一般社会の青年たちを動かすといふ程の力はまだ持つてゐないから、そこで何等かの方法によつてこれをより急速に一大発展強化せしめるの必要があつた。それがつひに会の創立一周年を経て四年の四月三日、県当局を動かして『日本偉人義公三百年祭講演会』となつた。このとき大洗の護国堂に同志と心をねりつゝ、何かしら時の到るのを待ちうけてゐた井上日召はこれをきくや双手をあげて大賛成、進んで研究会の運動に参加を申込んだばかりでなく、かつて秘書として世話を受けた陸軍中将貴族院議員坂西利八郎を説いて当日の講演に出場せしめた〉

 しかも、この義公三百年祭講演会は、昭和維新運動に火をつけるものでもあった。
 〈講演会がすむと水戸学復興会発会式が挙行され、従来の研究会は解消の形となつた。
 この会合は意味ある会合であつた。情熱の井上日召、理智の橘孝三郎、悲憤の藤井大尉この三人の心が固く進み寄つた。口田康信、満川亀太郎、雨谷菊雄、みんなみんな固い握手を交した。感激の会合であつた。そして『昭和維新』! この合言葉が集まつた四十余名の心から自然に、しかも熱烈な口調でもつてほとばしり出でたのである〉

 蹶起に至るまでには、さらに紆余曲折があり、その後水戸学復興会も分裂していくことになるのだが、水戸学の國體思想が、五・一五事件に参加する者たちを固く結びつける役割を果たしたことは間違いない。

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