自分の言葉で世界を生きよう

あまりにも、ありふれていて普段意識しないものの一つが、言葉である。言葉は、人に何かを伝達する手段であるとともに、あと一つ重要な役割がある。

「世界を認識して立ち上げること」である。

水俣病を題材にした「苦海浄土」を書いた、作家の石牟礼道子氏は、「言葉を使い始める前の人類は、どのようにこの風を感じていたのでしょうかね」という趣旨のことを言っていたとする評伝を読んだことがある。

無論、言葉はなくても、世界は「そこにある」だろう。
しかし、受け手である人間が、言葉を当てはめない限り、その世界は立ち上がってこない。
「今日の空は青い」のか「今日の空は、雲の輪郭がはっきりしていて、近くは深い紺色、遠くはさわやかな水色」なのか。

インターネットで見れるものは、情報、つまり言葉である。
言葉が掃いて捨てるほど溢れている空間に、私たちは生きていることになる。そこには、たくさんの決まり文句やら、どこかで見たことのある文章や言葉が並んでいる。最近は、書籍もどこかで見た文言をそのまま持ってきて、編集しただけの、内容の薄いものが散見される。自分の身体や5感から出てきたと思われる言葉がない場合も多い。

言葉と関係ないと思われるかもしれないが、落合博満氏の評伝、「嫌われた監督」に、記憶に残っているエピソードがある。

かつて、中日ドラゴンズの選手の中でも、チームの王様ともいえるポジションにいた、立浪選手から、スタメンから外す場面が活写されている。当時、立浪選手は不動の存在で、落合氏のほかに、スタートを外すことを考えていた人はいなかった。
しかし落合氏は、ベンチの同じ位置から毎日、立浪選手の3塁守備を見ていて、以前なら抜けることのなかった打球が、外野に転がっていることに気づいていた。
何がいいたいかというと、観客、野球記者、コーチ陣を含め、周囲の人と同じものを見て立浪氏を外すことは考えてもいなかったが、落合氏は自分だけの言葉で、世界や現象の固有性を見ていたとも言えると思うのだ。

誰かの言葉を、自分で変換することもなく、使用することは、世界を自分の言葉で立ち上げることを、放棄していることとほぼ同じではないだろうか。
他者が生み出した、切り取り方、立ち上げ方で世界を生きていると言い換えることもできるだろう。
これは、空気のようにあたりまえ故に、自分もそうなっていることがたくさんある。
しかし、せっかくこの世界で生きるなら、自分の言葉で立ち上げて、感じることが重要だと思うのだ。面倒だけれどその方が、自分だけの世界の固有性が立ち上がり、うんと楽しいだろう。

自分の5感をもっと信じて、固有性のある物事を発見するのを楽しんでいこう。

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