ミュージカルでなぜひとは突然歌いだすのか

1日に2度、別々のところで、タイトルにある「ミュージカルはなぜふつうに芝居している最中にうたいだすのか」という問いに触れたので、ちょっと前に宝塚入門の記事を書いたことでもあるし、そのことについて考えてみよう。

宝塚歌劇のばあいは、創始者・小林一三の理念とは別に、結果としては、ファンの深い愛が誤用の意味で敷居の高さを生んでいる可能性はあるのだが、それは同時に、きっかけさえあれば、導いてくれるひとや選び取れる入口はたくさんあるということでもある。しかし、そういう条件が整っても、多くのひとにとってミュージカルとは特殊なパフォーマンスである。その理由が、あの、突然うたいだす、突然おどりだす、ということなのだ。
うたそれじたいがおかしい、ということではないだろう。音楽のない日常生活は考えられず、日本ではたいがいのばあいそこに歌詞がついて、カラオケなどに接続している。じっさいには、個物の「うた」として発表されるものとミュージカルのうたとでは異なっているが、ひとまずこの点についてはちがいがないものと考える。問題は、「突然」ということなのである。オペラのように、全編にわたってことばが音にのせて運用されているものではなく、ふつうの芝居の最中に突如音楽が始まり、平らにしゃべっていたはずの人物が客席の方向を向いてうたいだす、この現象が、すべての原因であると考えられる。

まず、もっともカバーする範囲の広いこたえとして、ミュージカルが日本に根付いていない、教養として確立していない、つまり「知らない」ということがある。ミュージカルが「そういうもの」だということを知っていれば、そこで立ち止まることはないだろうと、こういうはなしである。しかし、ミュージカルをよく知るものにとっても、劇中でうたが突然始まることは変わりない。むろん、じっさいには、理由があって、うたはうたわれることになる。脚本的にみていけばそこには必然性があるし、そうでなくてもさまざまな物事が「うた」に向けては動いているので、厳密には「突然」ということはない。だが、多くのミュージカルファンがこの「突然」にかんして「そういうもの」と応えていることが示すように、現実的には、いわんとしていることはわかる、というぶぶんが大きいのである。だから、ここでは「知らない」ということも、あまり強い意味をもってはいない。非ミュージカルファンがそうして疑問を抱えるということじたいがすでに彼らがそれを「知っている」ことを示しているのであり、残るのは慣れや適性があるかどうかのちがいだけなのだ。

こうしたことから、「(主観的には)突然うたがはじまる」ことが奇妙に感じられることの原因には、むしろある種の親しさが、根底にあるのではないかと推測できる。たとえば、42.195キロを必死で走っているマラソンの選手をみて、まったくその価値がわからないものが「車があるのになんであんなに必死で走ってるのか理解できない」などとくちにしたとすれば、それはそのものが意地悪なだけである。マラソンとは「そういうもの」、そういう競技なのであり、そのことは、異文化的な位置にいるものにとっても容れられているのである。ミュージカルも同様である。マラソンの異文化感、ある種の奇妙さが共有されているように、ミュージカルの奇妙さも、問いが立つということそれじたいが示すように、ある程度は共有されているのだ。つまり、ミュージカルを「なぜあのように突然うたいだすのか」と問う内側には、マラソンを一般人にとってのランの量的拡大としてとらえるようにして、それを異文化的なものではなく、むしろ身近なもの、コミット可能なものと考えているふしが感じられるのである。
その親しさがどこからくるのかというと、おそらくうたっていないぶぶん、つまり「芝居」である。芝居を、わたしたちは、わたしたちが日常生活で行うコミュニケーションの活動と等しいものと、おそらくみなしている。そして、わたしたちは日常生活で突然うたいだすことがない。したがって、舞台上で行われているコミュニケーションで突然うたが挿入されるのは奇妙であると、このような推論が、無意識に行われているのである。

論点はふたつある。まず「芝居と現実のコミュニケーションは等しいのか」ということ、そして「突然うたいだすことはほんとうに奇妙なのか」ということだ。これにかんしては、最初に書いてしまうと、「言語運用とはそもそもうたである」といってしまえばおしまいなのだが、いちおうじゅんばんに見ていこう。


①「芝居」と「現実」

舞台のうえで行われるお芝居は、たしかに現実のコミュニケーションとよく似ている。生きた俳優が動いて、向かい合い、考えていることをくちにする。くちにされないことばも、俳優はそれぞれのふるまいを通して、おもいとしてあらわすことが可能だ。また小説などと異なり、舞台には奥行きというものがある。中心で話している主演のふたりの向こう側では、それぞれに役作りをした脇役たちが、新聞を読んだり、美人を指差してにやにやしたり、なにやら険しい表情のまま小声で議論したりして、この世界を「現実」のものに見せかけるような固有の芝居を努めて行っている。しかし、じっさいに舞台のうえに表出する物語には脚本がある。むろん、そうしたことを超越しようと、挑戦的な芝居を重ねている劇団もあるだろうが、原則的にお芝居は現実のアンサンブル的な会話のやりとりからノイズを取り払った、擬似的な現実であって、現実ではない。ロシアの批評家・ミハイル・バフチンは戯曲について以下のように書いている。


「近代の文学は、劇の対話か、たんなる解説形式や教育技法にまで弱まった、ある程度哲学的な対話しか知らない。しかし、戯曲における劇の対話や、物語的な形式をとった演劇化された対話は、確固たる揺るぎないモノローグ的な枠のなかに収められている。戯曲では、こうしたモノローグ的な枠は、もちろん、直接に言葉でもって表現されているわけではないものの、ほかでもない戯曲においてこそこの枠は一枚岩なのである。劇の対話のやりとりの台詞は、描かれている世界を引き裂くこともなければ、多次元的にすることもない。それどころか、真に演劇的であるためには、この世界がもっとも一枚岩であることが欠かせない」
平凡社『ドストエフスキーの創作の問題』39頁


この論文が書かれたのは1929年のことで、ひとことに戯曲とか演劇とかいっても、バフチンの想定しているものが現代のものと完全に合致しているとはもちろんおもわれないし、くどいようだが例外はたくさんあるはずだが、本質的には現代の演劇にかんしても引き続きこれらのことはいえるだろう。モノローグ的といっても、それを誰かひとりの人物、脚本家や演出家などに収束させてとらえる必要はない。舞台はどれだけ広くても有限であり、有限であるからこそ物語の展開は可能になる、ということなのだ。かつて「フリージャズ」といって、プレイヤーがそれぞれに好き勝手に演奏していく、音楽的統合を越えたところに即興のきらめきを見出そうとしたアヴァンギャルドな音楽があったが、現実とはじっさいそのくらいノイジーなものだ。そうすることで仮に「現実」を描出することができたとしても、それでは肝心の、物語を担う主演者、話者の声も聞こえてこないし、それが必要なのであれば、渋谷のスクランブル交差点にでも出かければよいだろう(そういう音楽を探究したひともいるが)。いや、そこまでノイズを求めなくても、いま、これを読んでいるあなたの現実が、すでに現実の表出なのである。
しかし、原理としてそうなのだからといって、ことあるごとに「これは芝居であって現実ではない」ということをつきつける芝居は興ざめである。そのために、演出家や俳優はさまざまな工夫を重ねていく。宝塚のある芝居を最前列で見たときのことだが、中央で主演のふたりにスポットライトがあたって物語が進行するいっぽうで、彼らのいる村の住民たちはめいめい芝居を続けていて、上手(舞台向かって右)側に座っていたぼくらの目の前に、ふたりの村人役がやってきて、ごく小さな声でしきりに釣りのはなしをしているのである。ほんとうに小さな声で、たぶん我々以外には聞こえていないような台詞だ。もちろんマイクに拾われてもいない。こういうことを、たぶん脇役全員がやっている。それが、リアリティを生む。これが芝居であるのか現実であるのか、などという本稿のような問いさえ浮かばせないもの、それが、そうしたリアリティなのである。

そうした有限性、枠組みを観客に前景化させないよう注意しつつも、芝居はその内側で脚本にしたがって進行していく。彼らは、現実のコミュニケーションのように、どもったりつっかえたりしないし、そういう演出なのでない限り、相手のはなしが終わるのを待たずにじぶんの意見を述べることもない。それが芝居の様式であり、そしてそれを様式と悟らせない芝居が、リアリティを帯びるものとなる。この点で、観客は演出に加担することにもなる。みずからすすんで、この幻想に与することになるのである。


②台詞とうたは断絶していない

宝塚歌劇における先代の月組トップスター・龍真咲は、「まさお」という愛称で親しまれており、その独特のうたいかたは「まさお節」として、ファンから愛されていた。ぼくは、この龍真咲の芝居(とうた)を長いあいだ見てきて、ひとつのことに気がついたのである。台詞にも、実はキーのようなものがある、芝居のあの独特の発声法によって生じる台詞群も、じつはうたの一種なのではないかということである。
こうした発見の背景には、ぼくではヒップホップ愛好ということもあった。RIZEというミクスチャーバンドでは、ヒップホップの押韻やラップのテクニックを駆使しつつも、基本的にはロックバンドとしてうたうということが行われてきたが、かつてそのボーカルのJESSEが、ボーカルはラップを勉強すべきだし、ラッパーは歌唱を勉強すべきだ、というようなことをいっていたのだ。ラップには原則的に音程がないことになっているが、じっさいにはそうではない。流れるトラック(ラップの背後にかかっている音楽・ビート)に対して「適切な音程」というものはなくても、少なくとも「不適切な音程」というものはある。だから、音痴なラッパーというのは、うたっていないのにもかかわらずすぐわかる。不協和音のような不自然さがあらわれてくるのである。通常、ラップとは、ボーカルからメロディを除いたもの、と説明されるし、じっさいそうなのだが、そこにはたしかにキーが存在しているのであり、それを証明するように、うたの上手いものはたいがいラップもうまいし、ラップの上手いものはたいがいうたも上手いのである。

ラップも、芝居の台詞も、それがなにかということを説明するにあたっては、たとえば「おしゃべりのようなもの」とか、「現実を芝居世界に移行させたもの」というようなことになるが、そうした説明は、その瞬間に、歴史を年表で把握することで多くのものを見逃してしまうように、それぞれ固有のなにかを見落としてしまう。じっさいには、ラップはただのおしゃべりではないし、芝居も現実とは異なるのだ。断絶があるとすれば、むしろここなのだ。芝居がある種の幻想、現実の模型であるということが見逃されたとき、芝居固有の表現はほとんど損なわれてしまうのである。

龍真咲においては、「まさお節」もさることながら、芝居の台詞も、いかにも「芝居がかった」、大形で随意的なものになっている。これを、ぼくは、このひとにとっては台詞もうたの一種なのである、というふうに解釈した。果たして台詞にまで音程をほどこしているものかどうか、それはわからない。だが、そのあつかいは、いってみれば、それこそラップがそう説明されるように、うたからメロディと、さらにリズムを取り払ったものであり、デジタルな説明では、それはしゃべり言葉そのままとなるはずが、じっさいにはそれはたしかにうたの一種、「うたからメロディとリズムを取り払ったもの」以外のなにものでもないのである。そうして、芝居の台詞に接続してあらわれるうたは、「まさお節」によってうたわれるが、それがそう感じられるのは、逆転して、龍真咲が芝居によって表出していたものがうたに残留するからなのだ。ごくたんじゅんかしていえば、「まさお節」とは「(うた-メロディ-リズム)+メロディ+リズム」なのである。

龍真咲はそういうことは大袈裟に行っていたから、そのように注目されたのだろうが、ぼくの考えとしては、基本的にこのことは芝居のすべての台詞・うたに当てはまる。①で見たように、台詞は「おしゃべり」ではないし、芝居は現実ではない。ではなにかというと、すでにうたなのである。だから、じっさいには、芝居とうたは断絶していない。うたは、突然始まっているのではない。断絶があるとすれば、芝居が開始した時点でじつは現実からはるかに隔たっており、しかし巧妙に現実を演出する方法が、それを解消してしまっているのだ。


③言語というものがそもそもうたである

かなり飛躍することになるが、ここでさらに持ち出したい仮説は、お芝居の台詞やラップは「うたの一種」ではなく、言語のプリミティブな姿なのではないか、ということである。それらは、通常の平坦な言葉の運用をモデルに幻影、あるいは芸術的表現として構築されているのではなく、むしろ本来のありようなのではないか、ということだ。
これは別にぼくの創見というものではない。たとえば国文学者の折口信夫である。折口信夫は『言語情調論』で、ことばの情調、つまり話者の気分がどのように現象としてあらわれるかということにかんして、「音覚情調」を説く。


「一音に音質音調音位音量などから来る特別の情調があり、一句一文にはその他に音脚音の休止などの影響があって特殊の情調を喚起する。右のような塩梅であるから、言語としての意味の意識のない場合にも、これが感情傾向を直覚することは困難ではない。実際日常の経験に照しても、にわかに聴官を刺戟せられた際或は物をへだてて声音を聞いた時に、直にその声の主の感情を覚ることの出来るのは、この作用によるのである」
中公文庫『言語情調論』20頁


その少し前のところで、その音覚情調が音楽と同程度に作用しているとは考えられないが、というふうに折口信夫は書いているが、それは、ここでいう「音楽」もまた、バッハ以来のロゴス的なシステムにほかならないからである。よくもわるくも、音楽はシステマティックに、計量可能なものとして現在ではあつかわれており、そうした秩序を音楽全体だとするのであれば、言語のもつ音楽性はそれとは遠いことになるだろう。だが、ぼくがいっているのはそういうことではない。

もうひとり、ルソーがいる。『社会契約論』のルソーは、実は音楽家としての一面もあったのだが(あまり成功はしなかった)、このひとは『言語起源論』において、端的に、言葉と音楽は起源が等しい、ということをいっているのだ。ルソーは、言語の誕生には「情念」が関わっていると考えた。ルソーでは、まず自己保存、自己愛がある。この段階では、メッセージを必要とするような他者は、むしろ遠ざけられるような存在であって、言語は必要とされないだろう。しかし、ルソーの想定ではひとには「憐れみの情」が備わっている。だから、自己愛は他者への情に転じ、そのときはじめて言語が生まれる足場が成立することになる。であるから、ことばは、もっとも原初的な段階では、思考より感受性よりのものだったはずであり、すなわちそれは詩であると。


「最初の音とともに最初の分節あるいは最初の音が形成された。その違いはその双方のもととなった情念の種類による。

…その付随する感情によって、抑揚はより頻繁になったりまれになったりし、変化は高かったり低かったりする。そのように拍子や音は音節とともに生まれ、情念はすべての器官を語らせ、その輝きすべてをもって声を飾る。そのように詩句、歌、音声言語は共通の起源もっている。上述の泉の周りでは、最初の弁舌は最初の歌となった。リズムの周期的で律動的な回帰、抑揚の旋律豊かな変化は、言語とともに詩と音楽を誕生させた、というよりその幸福な時代と幸福な風土ではそれらすべてが言語そのものだった」
岩波文庫『言語起源論』90頁


そうした理論を経由しなくても、ある種のメロディやリズムが、ことばの宿している意味をさらに明らかにするということは、ことばの平坦になった現代でもよく見られることだ。たとえば標語なんかもそうだろう。575のリズムが身体に馴染むのも、まずそれが技法としてあるということなのではなく、日本語の特徴が自然に導きだした独自のリズム感があらわれているということなのであって、むしろそれがことばの本来の姿なのである。

ミュージカルがなぜ突然うたいだすのか、というはなしだった。まず芝居の台詞は現実のものとは異なっているから、そこに突然うたが挿入されることは、現実世界でひとが突然うたいだすこととは、似て非なるものである。また、言葉がそもそもうただった、という仮説を採用したとすれば、芝居ではむしろそうした原始的なことばの姿が再現されているとも考えられる。台詞には、ある種の音程があるのであって、断絶があるとすれば、芝居とうたではなく、現実と芝居のあいだなのだ。そして、うたとしてつむがれるその「現実ふう」の台詞のなかで、人物たちが感極まったときに、ついにそれは、じっさいの音楽の理論を経由して、採譜可能なあの「うた」の姿を結ぶことになるのである。

ここから先は

0字

¥ 100

いつもありがとうございます。いただいたサポートで新しい本かプロテインを買います。