書評 浦賀和宏『デルタの悲劇』角川文庫

浦賀和宏氏が亡くなったのは今年(2020年)の2月25日のことだ。そのときおもったことはブログに書いてある。当初は冗談というか、嘘のように心底おもわれた。しかし、徐々にそれがじっさいにあったことなのだということが理解されていくにつれて、これまで経験したことのないような虚無感に襲われた。脳みそがお湯でふやけた指先みたいになってしまったように感じた。額の裏側の感覚が実在的に感じられるほど、あたまがからっぽになってしまったのである。
そのときのことは記事にじゅうぶん書いたのでくりかえさないが、本書である。本書『デルタの悲劇』は、訃報が知れ渡った時点で最後に刊行されるとおもわれていた作品だった。実はこのあと、角川春樹事務所のハルキ文庫から『殺人都市川崎』が出ることになっており、これがじっさいの遺作となる。校正の数日後に倒れたということなので、最後まで作家が取り組んでいたのが『殺人都市川崎』ということにはなる。だが、その事実とは別に、しばらくのあいだは「遺作」とおもわれていた(じっさい、いくつかの報道では『デルタの悲劇』を遺作としていた)本書の内容が、信じがたいものだったのである。というのは、本書は、「浦賀和宏」というペンネームで活動する作家、八木剛(これはじっさいの浦賀和宏の本名でもある)の死から始まる小説なのだ。浦賀和宏じしんが登場し、死ぬことも何度かあったはずだが、今回のリアリティはすさまじい。なにしろ、某ジャーナリストによる「解説」も、小説のいちぶになっているのである。

本書のしかけはこれまでにないほど複雑なもので、真相が明かされていくにつれ、「これは1回では理解できないかもしれない・・・」と気弱になりつつあるところで、この小説内「解説」が見事にすべてを整理して説明し、さらには、最初と最後に置かれた、八木剛の母親からある人物へ送られた手紙が、すべてを包括した、少なくとも作中ではもっとも高い次元の視点として示される。そういうわけで、複雑ながら理解不可能ということはない。むろん、再読して細部を読み深めていくことはできるし、そうすべきであるという示唆も、作中にはある(まるで浦賀和宏の過去の作品たちがもっと読んでくれといっているかのようだった)。加えて本書が、その複雑さを一読でも理解可能なものとしている理由としては、たいへんな短さがある。200頁にも満たないのだ。とすれば、遡ることも容易である。しかけとしてもっと巨大な小説になっても不思議のないところ、『彼女は存在しない』以降琢磨されてきた職業作家としての技術が、つるつるの球体のように、この小説を、いっさい無駄のない、要素を凝縮したものとしているのである。盆栽のようなものとでもいえばいいだろうか。見事というほかない。

小説は、八木剛の母親の手紙から始まる。そして、八木剛が残した「デルタの悲劇」という小説がその内側で開かれ、小説のなかの時間の流れにしたがって読まれることで進んでいく。だから、「解説」もそのいちぶとなる。これは、小説のなかの世界で刊行された「デルタの悲劇」に添えられた解説というわけだ。わたしたちがじっさい、直接、ふだん小説を読むように目にすることができる文章は、母親の文章だけということになるが、そういうふうにいってもしかたがないのが小説のおもしろいところでもある。もちろん、前衛的な作風ではそういうこともないし、一概にいえることではないが、一般論として、たとえば、映画内映画は、「映画」になることはないわけだし、『バクマン。』とか『重版出来』のなかで少しのぞきこむことのできる漫画も、その母体になる漫画を通る限りで、作品それじたいと同じ地平線で語られることはない、というか語ることはできないわけである。しかし、文字の羅列ほどに情報量が抑えられていれば、それも可能になるだろう。それは元素みたいなものなのだ。小説内小説が、小説の内側にあるものだとわたしたちがくりかえし自覚するためには、それをのぞきこんでいる登場人物の後頭部が必要になるだろう。しかし、それはわたしたちの想像のなかにしかない。紙に印刷された「あ」という文字は、「あ」である以上のことをしないし、もしそれ以上の働きをすることがあるとすれば、それは読者の想像力、つまり解釈のなかにおいてなのである。
こういうことが、浦賀和宏においては利用される。いくども論じていることではあるが(『Mの女』や『ハーフウェイ・ハウスの殺人』の書評など参照)、浦賀和宏は「どんで返し」で有名になったところがあり、そしてどんでん返しとは、こうした文字の平面性、それをのぞきこむ後頭部をいかようにも解釈できる、という性質が生み出しているものなのである。

本書では特に、その「文字の平面性」が強く意識された仕掛けが施されている。もちろん、作中にもあるように、作家も意識していたことで、ミステリにはフェアネスが要求される。だから、読んでいて「おや?」となる、なれる箇所はいくつか用意されている。気付けるようになっているといえばなっているのだ。しかし、それでいて、それをどのように読者に素通りさせるか、見落とさせるか、さらにいえば、「しっかり違和感を覚えたのに見落としてしまった」ということを痛感させるか、というところが腕の見せ所になる。これは、『十五年目の復讐』というおそるべき傑作に結実したあのシリーズにも見られる方法だった。しかし、ではその最終的な真相はどのように信頼すればよいのか、というところで、ぼくは「本がそこで終わっている」という言い方をこれまでしてきた。このことにかんしても、本書では比較的斬新ともおもわれる方法になっている。冒頭に書かれる母親の手紙、これが、解説のさらにあとにあらわれ、物語全体を包むようになっているのである。
まず母親は、冒頭の手紙で、息子が死んだということをある人物に手紙で知らせ、彼の遺作である『デルタの悲劇』を読むようにいう。そこから、小説内小説であるところの「デルタの悲劇」が始まる。このとき、それを読んでいる人物の「後頭部」を想定するかどうかというのは、自由である。というか、ただ読むぶんには同じことである。謎を解くことを目的とするのであれば、この人物が誰なのかを推測していくことにもなるので、「後頭部」からその前に回りこんで顔を見ようとすることに意味はあるだろうが、まあそれはどちらでもよい。「デルタの悲劇」は浦賀和宏による作品であるので、最終的には驚きの結末を迎えることになる。そればかりか、「デルタの悲劇」にもまた八木剛が登場するので、いよいよ小説の層のようなものが無効になってくる。こうしたところで小説は結末を迎え、某ジャーナリストによるわかりやすい解説と、残された謎について語られる。小説のなかの人物からすると、「本がそこで終わっている」以上、解説直前まで開示された真相が最終的なこたえとなる。だが、わたしたちはさらにその先を読むことになる。母親の手紙によってだ。「デルタの悲劇」は結末をむかえたはずだが、それは「本がそこで終わっている」ということと同義なのである。だから、もしそれがそこで終わらないのであれば、つまりわたしたちのようにそれを包み込む母親の手紙をようなことがあるのであれば、結末はまだ訪れていなかったことになる。これが示すことは、やはり浦賀和宏に通してあった、結末のゆらぎなのである。
じぶんで書いたものを読み返すと、『ハーフウェイ・ハウスの殺人』の記事にけっこうわかりやすく書いてあったので、ぼくじしんそれを参照しつつ書いていくが、『ハーフウェイ・ハウスの殺人』のある登場人物が、ある経験を「夢」だったのではないか、と考える場面である。同じぶぶんを引用する。


「全部夢かもしれません。夢から目覚めた世界もまた夢で、そこから目覚めた世界も更に夢で、私がこうしている世界も夢なのかもしれません。だからこそ人は決断するのです。確かにここは夢なのかもしれない。でもそれを言ったらキリがないから、現実と定義しておこう、と」祥伝社『ハーフウェイ・ハウスの殺人』308頁

このことを考えるときにぼくはいつも映画の『マトリックス』のことを思い出す。人類は機械に培養される電気を生み出すものとしてセルのなかで眠っており、マトリックスと呼ばれる夢の世界、仮想現実のなかで暮らしている。機械に生かされているという事実に目覚めてしまわないようにである。主人公のネオも仮想現実のなかで生きていたが、どことなく「ここではない」というような、納得のいかないおもいを抱えて生きてもいた。そこに、モーフィアスという伝説の男があらわれて、彼を荒れ果てた現実世界に目覚めさせるのである。だが、この出来事は、さらに納得のいかない違和感ももたらす可能性がある。ネオを含めたほとんどの人物は、マトリックスをほかならぬ現実と信じて生きていたわけである。それが、ニセモノだったとわかった。これが突きつけるのは、わたしたちの現実感覚が信用のならないものだということだ。とするなら、目覚め立ったこの荒れ果てた世界もまた仮想現実かもしれないということを、どうやって否定すればよいのだろうか。それが戦争続きの耐え難い日常だとしても、誰もそこが「仮想現実かもしれない」と考えないのであれば、仮想現実としての役割は果たされていることになるのである。
このマトリックス的な世界認識は、実は浦賀作品でも出てきたことがある。それは、ある種の諦念と達観をもたらすことになった。

浦賀和宏初期作品の主人公である安藤直樹は、笑わない。デビュー作『記憶の果て』では内面の描写もあったが、この小説であることを経験してから、彼は笑わなくなった。そして、それとほとんど同時に、彼は一種の名探偵となった。といっても、御手洗潔のような超人的頭脳がそのときから宿ったとか、そういうことではない。素質的には安藤はふつうの人間だ。では彼はなぜ名探偵になりえたのか。それは、この諦念と達観によってである。世界は、まず現実があってそこに属するというしかたで成り立つのではない。わたしたちがそう定義するのである。安藤にはそうしなければならない事情があったのである。そして、そのように「現実」を探究すること、すなわち、哲学者が世界の真実を求めることをあきらめとき、達観がやってくる。世界は、ひとつの把持可能な原理のなかに回収される。必ずそうなる。だから安藤の口癖のひとつに「すべてはどこかでつながっている」というものが出てくるようになる。げんにつながる道筋が見えるかどうかは重要ではない。つながるはずだという直観がまずあるのだから、つなげていけばよいだけのことなのだ。

これが、安藤の探偵としてのありようということになるが、見たように、実はこれは浦賀和宏の作劇法にも通じるものなのである。「どんでん返し」とは、いわばネオにおける“目覚め”である。モーフィアスがやってきて、いま見てるそれは現実ではないよと告げてくる、これがどんでん返しなのだ。しかし、それはキリがない。目覚めたその世界に、さらに外の世界からモーフィアスみたいな男がやってこないとは限らないのだ。いちど「現実感覚」が転覆している以上、そのように疑うことは不可避である。だからわたしたちは、それが現実だと、つまり「結末」だと、「本がそこで終わっている」という事実をもってして定義するのである。
本書の特長は、「本がそこで終わっている」という事態をそのまま物理的に作品のなかに収めているという点だ。わたしたちは、浦賀作品を通じて、なにが現実(真相)なのか、くるくる転回していく物語に翻弄されながら、過呼吸のような状態で最後のページをむかえる、という経験をくりかえししてきているわけである。それを、たとえばだが、加筆かなんかでさらにひっくり返しても、経験としてはあまり意味がない。それまで起こってきたことがもういちど起こったということに過ぎないのだ。ところが、本書は、作品の内部に小説を取り込むことで、「本がそこで終わっている」という事態を相対化するのである。そのことによって、この現実世界のわたしたちじしんが『デルタの悲劇』を読んで結末を迎えたという事実も相対化される。もちろん、エンターテイメントとしてそこには納得がなければならないだろう。以上の議論は、作品に頻出するモチーフと作劇法を接近させた結果の読みであって、じっさいには、「じゃあこの結末(現実)もひっくりかえる可能性があるので?!」というふうにはならない。ネオも、そういうふうには考えなかったはずだ。しかし、あえていえば、本書は作者じしんが、その接近を意識したものではなかったのか、というふうにおもわれるのである。わたしたちは、現実を、つまり「真相」を、ひとまずそれと定義して日常生活を送っていく。だがそれは、たんに目の前の事実に甘んじてということではなく、モーフィアスの到来したのちの目覚めにおいて、である。そうでなければ、定義もなにもなく、わたしたちの世界が立体的に入れ子構造になることもない。そののちに、宇宙が無限に広がっていることが書店で鬼滅の刃を売る行為と無関係であるように、諦念と、心地よい達観をもたらすことになるのである。だが本書は、文字の平面性を利用するしかたで、これにちょっとした揺さぶりをかける。文字の世界では、世界の内部も外部もなく、等価に描かれる。だから、さらに外側からそれを見る限りで、「後頭部」を意識した読み方でもしない限り、そこに質的な差はない。とすると、果たして“目覚め”は必要なことなのだろうか。わたしたちは・・・いやわたしたちはそういう経験をしないので、たとえばネオは、目覚めることで、マトリックスをつ超えた現実世界に到達した。その構造は、ふつう立体的な。マトリョーシカ的なものと考えられる。だがそうではないのではないか。それは、連続した、より高次の視点からすると平面的な、移動に過ぎないのではないだろうか。

こういうことを本書で浦賀和宏が訴えている、というはなしではむろんない。ぼくがいいたいことは、エンターテイメントとしての条件をじゅうぶんに満たしつつ、こうした考えを刺激するようなヒントが、浦賀ワールドには埋まっているということである。ほんとうの遺作となった『殺人都市川崎』は、ほしいものリストでいただいてもうすでに手元にある。これを読んだら、もう新作を読むことはできない(読んでいない浦賀作品はまだいっぱいあるけど)。読みたいけど、読みたくないな・・・。

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