書評 イプセン『人形の家』

現在連載中の真鍋昌平による『九条の大罪』という漫画で、愛の幻想のなかにじぶんがけっきょくとして「商品」としてしかあつかわれていなかったと悟り、相手を殺してしまう女性が登場し、そこであらすじだけ知っていた本書のことを思い出して読んでみた。ノルウェーの劇作家、ヘンリク・イプセンによる、女性解放運動にもつながる金字塔的な戯曲である。

本作にはあの有名な「ノラ」が登場する。たぶん、「ノラ」という語だけがさまざまな意味を含んでくちにされるのを見て、調べてストーリーを知っていたのだとおもうが、この夫がヘルメルという銀行家である。ヘルメルは、ノラのことをヒバリさんだとかリスさんだとかいってかわいがる。当初は、表面的にも、またノラじしんの認識としても、彼女はそれを悪くとってはいない。愛玩動物か、あるいは「人形」のようにかわいがられ、彼女もまんざらではないのである。しかし、ヘルメルが以前体調を崩した際に彼女が実行したお金の問題で、これが崩れる、というか、成立していなかったことをつきつける。それもヘルメルが病気になって、転地療養するのに必要だったお金なので、なにしろ夫のためではあったのだが、お金を借りる際に、ノラは偽署をしてしまったのだ。それがわかったとき、ヘルメルは激怒する。社会的地位もある彼は、とにかくその不正によってじぶんの名誉が失われることばかりおそれている。ノラは、それまではある奇蹟を期待していたという。つまり、夫がじぶんをかばって矢面に立とうとするのではないかと。そうなったら、じぶんが決死の覚悟で夫を守るつもりだった。げんに彼女は夫のために、というのはまず夫の命、健康のためであり、そして夫の名誉のために、彼女は秘密でお金を借りていたのである。ところが、ヘルメルにその様子はない。そして、すぐにその事態は解決もする。お金を借りていた相手はクログスタットといって、彼も重要人物だが、もうひとりの重要人物、ノラの友人であるリンネ夫人のはからいで、クログスタットは告発をやめ、証書を返してきたのである。すると、ヘルメルはすぐに態度を変えて、またもとの、人形をかわいがるような夫の姿に戻る。この露骨な、ほとんど子どもじみているようにすら見える変わりようを見て、ノラはついにじぶんはひとりの人間として見られていたわけではなかったのだと悟る。これまでのものは愛などではなく、ただのお遊戯であり、まったくなんの意味もなかったと。そして、彼女は真の自立を求めて家を出るのである。本作は1879年の作品であり、現代の視点で読んでも最後のふたりのやりとりは非常に画期的で、新鮮ささえ帯びており、当時はそうとうに批判もあったようである。

フェミニズム的にも文学的にも豊かな問いの投げかけに満ちており、それが本作がいまでもくりかえし読まれ、また上演されている理由になるが、印象的なのはやはりノラの家出で物語が結ばれるということだ。しかもそれは、すがりつくヘルメルが最後の希望をもって耳をそばだてているところに戸の錠が下りる音が聞こえてくる、という比喩的なしかたでもってだ。じっさい、ノラはじぶんが戻ってくる可能性を完全にゼロにはしていなかった。これもまた「奇蹟」と呼ばれているが、ふたりがすっかり変わって、ほんとうの夫婦になれるときがきたらと、なかばヘルメルにむりやりいわされている感じもあるが、そういう具合に、完全に訣別というふうには、いちおうはなっていない。ヘルメルもそれを信じて耳をすませるのだ。けれどもそこに届くのは戸のしまる音である。錠が下りるというのは、なかからしかできないだろうから、たぶん事情を話して去っていくノラを見送って女中がしめたということなんだろうが、ともあれ、ここではその別れが段階を踏んで示されている。ぼくは、これはやはりノラは絶対に帰ってこないということなのだろうと受け取った。というのは、ノラとヘルメルのあいだにはもはや共有された言語のコードみたいなものがないからである。

本書とは無関係のところで、たまたまなのだが、ちょうどツイッターで、ルッキズムに直面するのが怖いという旨のツイートを見かけた。それは、動物倫理学にかんする葛藤ともよく似た戸惑いを、現代人にもたらす。それは、いま当たり前に通用している価値観が転覆する可能性を、当然に受け止めなければならないからである。このはなしにはぼくも強く共感した。ぼくもいまちょうど動物倫理学の本を読んでいて、同じおもいだったからだ。動物倫理学というのは、大雑把にいえば動物との関係を見直して、最終的には肉を食べるのをやめていこうとするものである。まだ読んでいる途中なので詳細には踏み込まないが、基本的にぼくはそのことには同意するものだ。ところが、信じがたいことに、ぼくはその足でステーキを食べにでかけるのである。畜産には倫理の問題以外に環境への負荷や、そもそも非効率であることなど、いくらも問題が出てくるが、それを帳消しにするような「とはいえお肉はおいしよね」という快感中枢からの絶対的指示が当たり前にあらわれるのだ。ルッキズムにしてもそうである。これは、外見に基づいてその人物にかんする価値判断を下すありかたのことだ。これにかんしてもむろんぼくは同意するものである。しかしその筆の流れのまま、ぼくは美しいハリウッド女優を讃えもするのである。いったい、この矛盾を、わたしたちはどうすればよいのだろうか。このときに、ぼくは緩衝材としての物語を想起したのである。ひょっとすると同時的に『人形の家』を読んでいたせいかもしれないが、かみあわない会話を並存させるのは物語だけなのだ。
どういうことかというと、たとえば人種差別である。黒人の奴隷制が当たり前にあったころ、こんなことはまちがっていると述べる人物がいて、それに同意した人物もいたかもしれない。しかしそこで彼が「とはいえ黒人は人間じゃないよね」といったとしよう。現代人であるわれわれは、この彼の言が重大な誤りであることを即座に理解できるだろう。同様に、いまぼくが、動物倫理学やルッキズムにおおむね同意しながらも、「とはいえお肉はおいしいよね」とか「とはいえ美人は正義だよね」とかいう姿は、200年後くらいのひとからしたらたいへん異常なものに見えるのではないだろうか。
そのようにして、同意し、「理解」することと、「実践」することのあいだには大きなへだたりがある。少なくともぼくにはそう感じられる。その思想が、常識に登録され、ひとびとの行動の基本原理としてあまねく行き渡るためには、たいへんな時間と根気が必要とされるのだ。
では、仮に200年後、人類は誰もお肉を食べず、外見での価値判断を嫌悪するようになっているとしよう。わたしたちはそれまでの200年、なにをしてきたのだろうか。むろん、この「理解」と「実践」の距離をせばめてきたのである。しかし、せばめてきたということは、現在におけるそうとうのへだたりのままに、この試みが実行されていなければならない。実行が開始されていなければ、持続もありえないからだ。つまり、たとえばいまあたまで動物倫理学を「理解」しながらもお肉を食べている状況は、ある種の疎外というか、知的努力を必要とする行為なわけである。その悟りは、自然には決して訪れない。魯迅は「鉄の部屋」という、ひとびとが蒙昧のなかに眠り部屋を想定したが、外部からやってきたものがドアを叩いて起こさない限り、わたしたちが目覚めることはないのである。そのドアを叩く音に耳をすませるのが知的努力ということなのだ。
そしてこのことは、このような人間の世界認識そのものにかかわるような価値判断にかんする思想がたいがいそうであるように、対立するものどうしで議論がかみあわない。これは、じつはノラとヘルメルの会話がまさしくそうなのだ。なぜかというと、これらが多くのばあいそれを「理解」するために知的努力をするものと、身体的に当事者であるものの議論にほかならないからである。じっさい、ヘルメルは最後まで正確にはノラのいっていることを理解できてはいないようである。両者では、もはや見ている世界が異なっている。共通の言語コードが失われてしまったのだ。それ以前までは、ノラじしんもいうように、彼女が夫の「世界」に結果的には組み込まれることによって、コミュニケーションは成り立っていた。だが、それがうつろなものであったと悟った彼女はもうそこにはいられない。するととたんに会話が成立しなくなる。ヘルメルはいつまでも、かわいいヒバリさんがなんかピーチクいっているとしかおもっていないし、だんだん事態の深刻さを理解していきつつも、けっきょくはノラの主体性を丸ごと認めることはなく、下位の、未熟なものが「まちがったこと」をしようとしているとしか考えないのである。肉食はよくないことなのだと、身体的に、当事者として直観したものと、「でもお肉はおいしいじゃないか」と延々言い続けるものとでは、もはや交感するなにものもないのである。

だからヘルメルは、最後にノラが、言わされたというか、むしろこの場を去るために残していったとでもいうべきか、その「奇蹟」を信じて耳を立てる。そこへ、「錠が下りる」という比喩が到達する。伝わらないのであれば物語を介在してメッセージを付託する以外に方法はないのだ。もちろん、ヘルメルはそもそも理解しようとはしていない、つまり知的努力をしてはいないので、それで完全に了解ということにはならないが、本作がここで結ばれていることには、そういう「知的努力の限界」のようなものが見て取れるのである。知的努力とは、けっきょくのところ「ことば」の運用のことだ。そこに身体性はともなわないし、当事者意識もない。だからぼくは動物のことを心配しながら肉を食べることができる。こうしたものに情理をつくしても表面をすべっていくだけだ。だが物語は、そこに価値をプールすることができる。錠のおりる音は、このあといくどもヘルメルの頭蓋のなかに響くことだろう。そのたび、彼はノラのことばを反芻することになる。やがては、彼のなかにも知的努力が芽生え始める。そのときになってようやく彼はノラの方向に向けて歩き出すことができるようになるのだ。
こういう視点でいうと、本作の締めは、ノラの旅立ち、自立で結ばれると同時に、それよりはるかに困難であろうヘルメルの目覚めに向けた出発点でもあるのだ。ノラが家を出た瞬間に、物語は分岐する。なぜなら、ヘルメルの鳥籠のなかにノラがいたときには、ちょうど舞台に模されるようなひとつの空間に、言語のコードがおさまっていたものが、家出とともにふたつの物語を生んでいるからである。その後のノラはどうなったかなど、いろいろ議論もあるようだが、なんというのか、それはまた別のはなしだ。錠が下りたあとには、ノラとヘルメル、それぞれの物語が別々に起動しているのである。だから、『人形の家』はここで終わらなければならなかったのだ。

正直にいうと、ぼくのなかにはヘルメル的なぶぶんがかなりある。だからこそ、ということでもないが、第三幕の、たいへんな緊迫感のあのやりとりは、現代的にすら見えた。そしてじっさい、それは現代的でもある。知的努力による「理解」と「実践」の距離は、この時代よりはせばまっているだろう。だが、この手のかみあわない会話はいまもどこかで行われているのだ。

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