2024/03/14 嬉しいこと

半分寝ながら文章を書く。最近はもっぱら日付が変わった頃には寝て朝8時には起きるような生活を過ごしているので、もう眠い。けど今日のうちに書いておきたいことがあるから、書く。

ものすごいことが起こった。
札幌高裁での「結婚の自由をすべての人に」訴訟で同性婚を認めないことについて違憲の判決が出たのだ。法の元の平等について記載した憲法14条、婚姻制度の自由について記載した憲法24条1項、個人の尊厳に立脚して法を制定することを求める憲法24条2項。現在の同性カップルを取り巻く状況はこれら全てにおいて違憲である、という判決が出たのだ。

以前、こんな記事を書いた。まだ読んでない人は読んでもらえたら嬉しい。私が大事にしていたいことを、たくさん書いた記事だった。

ご覧の通り、書いた当初に思ったよりも大きな反応があった。イコラブのファンの方や、セクマイ当事者の方などいろんな人たちに読んでもらえて、さらには「いいね」と言ってもらえたのは純粋に嬉しい。
この記事では、まとめると「同性愛を消費することはマイクロアグレッションとなり得る」ということを書いたのだけど、そのマイクロアグレッションを生む大元は何かと問われると社会の差別的観念であり、それを生み出しているのは社会規範、つまり法律なのである。こいつこそが同性愛差別のラスボスだ。

私は、社会規範が変わらない限り個々人の単位で起こる小さな差別はなくならない、と思っている。少々悲観的な考えだが、正味事実だと思う。
逆に言えば、社会規範が変われば—つまり同性愛・同性婚が常識となれば—それは当たり前のこととして世に浸透し、日常に染まり、瑣末なこととなり、人は気にしなくなる。一般化して、無関心になる。この「無関心」である状況こそが、私が望む「差別されない」という状況だ。と、思っている。

しかし同性婚の法整備に向かう国の足取りは思い。まるでぬちゃぬちゃの泥の中に両足を突っ込んだまま、重たい足を引っ張り上げて次の一歩を進めるのをめんどうがってそこに立ち尽くしてスマホをいじっているような、そんな印象を受ける。
これまで各地方裁判所で行われてきた同性婚訴訟の違憲判決に喜びながら、判決文や違憲「状態」という判決内容にはどうしてもしこりが残る。「まあ違憲なところもありますけどね、でもこれってそんなに性急にやんなきゃダメなこと?」という声が聞こえてきそうな判決文を読みながら、ちょっとやるせなくなる。
明るめの未来が見えそうで、けどやっぱりその遠さを実感して。この繰り返しだった。

そんな期待と落胆の繰り返しの中で、ようやく期待がぐんと上回った日が訪れた。今日である。

札幌高裁の判決が出た当時、私はマックでポテトを食べながら今日の午前中に行われた東京地裁二次の判決文を読んでいた。読みながら、ちょっと絶望していた。私が死ぬまでにいつか同性婚が認められたらいいなぁなんて思ってたけど、ムリかも。パートナーシップ宣誓制度で我慢してねって、それで終わりかも。違憲状態ですね〜どうにかしなきゃね〜って国が言ってるうちに死んじゃうかも。そう思いながら判決文のページを閉じてSNSを開いたら、目に飛び込んできたのは「違憲」の文字だった。

ポテトどころではなくなった。無我夢中で情報を追い、関連記事を読み、YouTubeのライブ配信を見て、公開された判決文を読んで、乗らなきゃいけない高速バスの時間が迫っていたからバスに乗って、もう一度判決文を読んだらなんか普通にめちゃくちゃ泣けた。全然、同性婚が認められたわけでもないのに、裁判長がこれまで私たちが思っていたことをぜ〜んぶ簡潔に完璧に代弁してくれたものだから、なんだか本当に嬉しくなって、バスの中でぽろぽろ泣いた。高速バスに揺られて4時間半の間、いつもなら2時間くらいは寝てしまうのに判決に関する情報や意見を読んでいたら一瞬で過ぎていった。当事者も当事者ではない人も、同性婚を実現させたい人たちはみんな喜んでいて、当事者の人たちはなんだかみんなちょっとずつ泣いていた。いやSNSでの言葉でしか判断はできないけど、「やっと、」という万感の想いを感じた。

別に同性婚が法律婚として認められたわけじゃない。官房長官はそれでもまだ「注視」という言葉を使っているし、多分きっと道のりは長い。でも、死ぬまでにはいつかきっとパートナーと家族になれるよね、なんて希望を淡く持ち続けていられそうな気持ちになれただけで、本当に嬉しくて仕方がないのだ。

この嬉しさを、ちゃんと言語化しておきたかった。それだけでした。今日はもう寝ます。明日、また判決文を読もう。

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