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量子もつれ:時間と生命の本質?

我々が生物として体験する時間は、逆らえない流れであって線となっている。
しかし、それは二重スリット実験でも量子もつれの実験でも、測定をする時初めて結果が確定することが分かった。 そこで物理学者は「未来から過去に干渉することが可能だ」、という仮説を立てた。

しかしそれはあまりにも突飛ではないだろうか。
不確定性に常識をやられて、自分の錯覚に気づいていないだけではないだろうか。
なかなか受け入れがたい話である。

可能性の波

その見方を説明するには、まず量子もつれのことを説明しなければならない。

素粒子の大きさだと、その位置か速度しか正確に測れない、というのが量子力学の特徴だ。これが不確定性原理である。素粒子の大きさを見ると、観測する時に結果が初めて確定するということは実験で証明済みだ。
その上にこんな実験結果もあった。一度物凄く近くにあった素粒子同士は、遠く離れても時間が経ってから測定しても、お互いの状態を瞬時的に影響し合う。そんな現象が発見された。これが量子もつれである。
これらの現象を説明するために、科学者たちは頭を悩ませた。

世界の挙動を記す等式

素粒子がある位置と速度にどれだけ成りやすいのか。それを表す等式が波動関数である。図にすると波となる。

その波が測定に当たって収縮する(≒一点に集約される)。そしてどこに収縮するかは確率的にしか分からないものだと割り切る。 これがコーペンハーゲン解釈である。量子力学の原点のようなものだ。

一方で、もっとキャッチーなものもある。 その波が2つ行き違って重なると、量子もつれが起きて、「結果が一通りに落とし込まれた」ように見えただけ、という説明だ。宇宙全体が1つの波動関数で表せて、宇宙の中にいるそれぞれの存在は局所の波。観測は一種の量子もつれで、不確定性は我々人間がたまたま1つの結果に当たっただけ。見なかったほうの結果は別の世界で発生して、別の我々が見ている、という見方だ。これが多世界解釈である。

波動関数の解釈は他にもたくさんある。 この2つの派生もあれば、冒頭に話したように現在が過去に干渉できるという解釈も存在する。戦国時代なのだ。

その中でも、多世界解釈の系譜は有力となりつつある。 測定を一種の量子もつれだと解釈すれば、不確定性は説明が付くし、観測という現在の行動によって実験という過去が変えられたわけでもない。 ただ単に、世界が枝分かれしていて、「私」という素粒子の集合体が1つの実験結果ともつれて結びついた。枝分かれした世界すべてを見れば、起こり得ることはすべて決まっているのだ。そもそも観測は存在しなくて、あるのは世界だけ。 人間は世界の一部でしかなくて、そこには自我も自由意志も存在し得ない。

量子力学が出来上がるまで、物理学はこの確定性が守られてきたのだ。しかしその代わりに、事あるごとに無限の世界が生まれることになってしまう。

不確定性も現実が無限に広がるのも気持ち悪いから、そして未だに実験結果を予測できていないから、実は真相の有力候補だと見られていても意見がまだまだ分かれているのだ。

可能性の山脈を歩く

確定性が保たれるのはすごく魅力的だ。文字通り世界の本質に近づけられるほど興奮するものはない。 しかし、宇宙がまるごと無限に枝分かれするには、莫大なエネルギーが必要なのではないだろうか。ここからは自分の見方をぶち込んでみたい。一介の素人なので、間違いが出来た場合はコメント欄で教えていただきたい。

人間に限らずすべての生命は、ただただそこにある状態と結びつけて、時間の流れを作っている、という解釈だ。

例を挙げると、 私の生活にこんな流れがあるとしよう。
80%①覚醒→支度→07:15乗車→→会社にいる
15%②  ↘睡眠→支度→09:00乗車 ↗
4.9%③  ↘支度→負傷→07:30乗車 ↗ 0.0099%④↘風邪→睡眠→ベッドの上→家にいる
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①を私は覚えている。

多世界解釈的に考えると、こうだ。
②③④⑤……は別の私が経験していて、すべての私を俯瞰すれば、私はすべての可能性を同時に経験していることになる。

しかし量子もつれをある状態との結びつきとして捉えると、こう考えることもできる。状態はそれぞれ既に出来上がっていて、今ここにいる私はそれらの状態を自分から1つ1つ関わりにいって、繋ぎ合わせているだけだ、と。 この解釈だと、流れを作るのは自分(意識を持つものすべて)なのだ。

時間は空間の1軸に過ぎない

ここは理解を進めるために図を描きたい。
これから言うことは、なるべくハッキリと頭の中で思い描いてほしい。

ある時の宇宙まるごとの状態を点としよう。
点と点を繋ぎ合わせれば、徐々に伸びて線となる。状態から状態へと変わることで事柄が出来上がる。事柄は線だ。
線と線が隣り合わせて、徐々に広くなっていって面となる。似ている事柄と似ていない事柄をすべてまとめれば可能性になる。可能性は面だ。
宇宙のすべての状態を無数の点が織り成す、ひらべったい面の出来上がりである。
さて、その面をペタンと横方向に貼り付こう。
その面の下へと、確率の値を縦方向にマッピングしよう。
一般的には図は確率の高いほうを高く描くけれど、ここは敢えて比喩重視で、行きやすいほうを下としよう。

すると、高かったり低かったり、山脈のような3Dな図が出来上がる。

先ほどの例で言うと、会社にも家にも谷が出来ていて、会社の谷は深くて私を引き込む。その山脈を歩くということは、ちょっと違う宇宙を行き来して、自分でフレームを繋ぎ合わせて映画にしているというイメージだ。
山(=あるグループの状態に行かせない確率の壁)は変えられないし、力を入れないと望まない方向へと堕ちていく。

でも、私たちは体験したい世界をある程度選んでいいのだ。
山を登ったり下ったりはできるだろう。

自由意志も時間の流れも存在している。けれど、完全に自由ではないし、生命とは時間の流れ(≒人生の映画)を作ることそのもの。 数多くの世界を「線」に繋ぎ合わせて初めて生命は成り立つ。
そんな、ちょっと中立的な考え方だ。

ゾウを語る同士として

結局、
「神はサイコロを振らない」(≒世界に不確定性はない)も、
「観測することで結果が確定する」(≒量子もつれによって情報が過去に戻る)も、
「今だけが真実」も、
切り取り方が違うってだけで、どれも正しいと思うのだ。同じゾウを触っている同士で喧嘩してほしくないものである。

そして大丈夫だ。あなたは操られてなんかいない。可能性狭められているだけだ。
さて、今ここにいるあなたはどんな宇宙を選び取る?