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新婚ブルー 3

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 玄関のドアの前で私は息を切らしていた。
紙おむつと粉ミルクが入ったドラッグストアの袋を両手に提げて、いつのまにか枯れ葉を踏みしめる歩みは全力疾走になっていた。心臓が痛いくらいに脈を打っている。さっき、電車に乗っているとマーちゃんからメッセージが届いた。
『子供のオムツと粉ミルクをどこかで買って来て』
どういうことだろう……と私は思った。『どうして?』という私が返したメッセージには、既読の文字がついたものの、返信はなかった。放っておかれた私のメッセージが、自分自身を不安にさせる。とにかくおむつとミルクを買って帰るしかなく、私は最寄り駅で電車を降りると隣接されているドラッグストアに入った。これが必要ということは、うちに子供がいるということだろうか?マーちゃんと私が二人で暮らすあのマンションに。しかも、紙おむつが必要ということは、子供ではなく、いや子供の一種なのだろうけど、赤ちゃんなのではないだろうか・・・。一体なぜ・・・?
答えを急ぐから、自然と帰る足が速くなったのだ。
嫌な予感がした。私は朝のニュースを思い出していた。虐待を伝える女性アナウンサー。そこに、だんだんと自ら近づいていくような不安感。玄関の前まで来ると喋れないほど呼吸が荒くなっていた。チャイムを押す前にドアが開いた。
何もない、いつも通りのマーちゃんの顔が私を出迎える。朝のケンカなどまったく気にしていないようだ。
「ありがとう。わかった?」マーちゃんはそう言って、モデルの赤ちゃんが可愛らしく微笑むパッケージの紙おむつと、重たい缶の粉ミルクを取るために手を伸ばした。
「わからなかったから、なんだか適当に・・・。」
そう言いかけると、部屋の中からものすごい鳴き声がした。いや泣き声だ。子供でなく赤ちゃんの。やっぱり子供だ。しかも赤ちゃん。マーちゃんがミルクを持ってバタバタと廊下を走っていく。
「今作るぞ~。」
マーちゃんの声がはずんでいて、なんだか少しうれしそうに聞こえる。
私は靴を脱ぐと玄関に揃え、心を落ち着けてリビングに向かった。心臓がまだドキドキしている。マーちゃんから遅れて恐る恐るリビングに入ると、床に座布団一枚が敷いてあり、そこに赤ちゃんが寝ていた。いや眠っているわけじゃない。起きているけど体は寝転がっているということ。天井を見上げ、両手をギュッと握って頬の横に持っていき、必死に泣いている赤ちゃん。聞きなれない声がリビング中に響き渡る。
「くるみ。」唐突に聞こえてきた名前。
赤ちゃんを見下ろしながら立ち尽くす私に、カウンターの向こうのキッチンでお湯を沸かしながら、マーちゃんが言ったのだ。
「え?」その名前には聞き覚えがある。
「くるみだよ。」
「あぁ……。」私は短く息を吐いた。
あぁ、くるみちゃんかぁ。そうか。そうだったのか。
「お義姉さんの・・・。」
どうやら、泣いているのは姪らしい。正確にはマーちゃんの姪だ。
全く知らない子ではなかったことで、私は少し緊張が緩んだ。産まれたと聞いてお祝いは贈ったものの、当のくるみに会うのは初めてだった。
マーちゃんには姉がいる。7歳違いで、ものすごく顔立ちの綺麗な人だ。とにかく目がぱっちりとして印象的。誰が見ても、一度見たら忘れられないくらい整った顔だ。お義姉さんは、確か、不倫の末に十五歳くらい年上の人と結婚したはずだったけど。
「何カ月だっけ?」
私は泣きわめいているくるみを凝視しながら、刺激してそれ以上泣き声が大きくならないように、そっと食卓テーブルのイスまで移動して腰かけた。そのとたん、走ってきた疲れが溢れ出てくるような気がした。
「もうちょいで3カ月らしい。」
「もうそんなだっけ・・・。」私はつぶやいた。3ヵ月の赤ちゃんなんて、見たことがない。触ったこともない。すべてがふにゃふにゃとしているように思えて、私にとっては得体の知れない生きモノだ。
「くるみちゃんだったんだ。で、なんでうちに?」
マーちゃんは粉ミルクの缶をじっと見つめていた。ずいぶんと長いこと。その無言の長さが、また私を不安にさせる。私は何気なく、自分の前髪を引っ張った。
「仕事してたら親父から電話来て、とにかく来いって言うからさ。少し早退して親父んとこ行ったんだ。そしたらいたのさ。」
「くるみちゃんが?」
「あぁ。」
「それで?」
「だから俺が連れてきたわけ。」マーちゃんは缶を凝視することを止め、粉ミルクを匙で慎重に量った。そして、ゆっくりとこぼさないように哺乳瓶に入れた。
マーちゃんの説明はいつもよくわからない。事実だけを述べて、それで終わり。まるで会社の業務連絡のようだ。
「・・・どういうこと?お義姉さんは?」
「あいつは全然ダメ。」その言葉には力が入る。
「全然だめとかそういうことじゃなくて。」
「ちゃんとやってるならくるみ置いて、いなくなったりしないから。」
「え?お義姉さん、いなくなったの?」
「親父の話だと。」
「え、どういうこと。」思わず声が大きくなった。
「知らない。」マーちゃんは素っ気なく答えた。お姉さんの行動や行方など、まるで興味がないという感じで。マーちゃんは哺乳瓶にお湯を入れ、くるくる振り回しながら中のミルクを溶かした。
「知らないって何よ。」
「だから母さんが死んでから、全然ダメなんだって。」
お義母さんが亡くなってから、まとまりのない自分の家族のだらしなさが、マーちゃんには情けなく、悔しいようだった。それはこれまでにも、会話の端々に感じたことがある。
慣れない手つきで、マーちゃんはやっとミルクを作り上げた。そして泣いているくるみを恐る恐る抱っこすると、哺乳瓶の先をくるみの口に含ませた。
「くるみ、お腹すいたなぁ。」
飲ませながらマーちゃんは優しくつぶやいた。私とは視線を合わさない。私の不安に、あえて気づかないようにしているのだろうか。それとも、私に対して後ろめたい気持ちなのだろうか。
「哺乳瓶はあったんだね。」そう言いながら私は冷静になろうとした。驚きが濃すぎて、怒りに変化しかかっている。私は前髪を人差し指に巻き付けて強く引っ張った。
「姉貴が、くるみと哺乳瓶と保険証だけ置いていったんだって。」
「お義兄さんは?」
「よくわからないけど、お義兄さんの子じゃないらしい。」
「はぁ?どういうこと?」
「俺もその辺よくわかんないんだって。ただ姉貴も駄目、親父も駄目なら俺がくるみにミルクやるしかないだろう。」
常識外れと思える行動の連続で、もう私の頭がパンクしそうだった。マーちゃんの話では、お義姉さんは、くるみの出生を巡ってお義兄さんと揉めケンカになった挙句、くるみをお義父さんに預けて銀行のキャッシュカードとクレジットカードを持ったまま行方がわからなくなったということだった。スマホも、もちろん繋がらないらしい。
とんでもなく、自由奔放に生きているお義姉さん。マーちゃんの家族を支えていたのは、以前はまぎれもなく母親だった。でもそのお義母さんが2年半前に、突然の交通事故で亡くなってしまったのだ。
 マーちゃんは何も言わずにくるみにミルクを飲ませている。急に降って湧いてきた問題に、私たち二人はどうしたらいいのか、まったく見当もつかない。泣いているくるみに、ただミルクをやるだけ。
「お義父さんは?」
「だから親父も全然ダメだろ。」マーちゃんの言い方に、さっきよりも強く力が入った。
「全然だめって何がよ。駄目だろうと何だろうと、お義姉さんはお義父さんのところに置いていったんでしょう。面倒見てくれると思ったからじゃないの?」
「そんなの姉貴が何にも考えてないからだよ。」
「それで済む話?」
「そういう奴なんだよ、あいつは昔から。」苦々しくマーちゃんは言った。
「そういうくくり方止めてくれる。」
「親父が世話なんかするわけないだろ。」
「じゃ、どうしてお義姉さんはくるみちゃんを置いていったのよ。」
抑えようと思っても、どうしても感情が高ぶる。
「知らないよ。」
くるみがわぁっと一声泣いた。私とマーちゃんがうるさかったに違いない。
「あれ?もう無い。まだ飲むのかな。」
空になった哺乳瓶をひらひらさせながら、マーちゃんが私の方を見た。
「知らない。」
マーちゃんはまだ私に話しかけたそうだったが、敢えて気がつかないふりをした。
「で、どうするの。」そう尋ねた私を、嫌な予感が包んだ。
「あ・・・うん・・・。」
マーちゃんが口ごもる。お腹いっぱいになったからか、くるみはそれ以上、泣かなかった。
「とりあえず、ミホは明日から家にいるんだろ。」
「うん。」
「じゃ、見ててくれない?くるみのこと。」
私は奥歯をぎゅっと噛みしめた。
「そんなに何日もじゃないからさ。」
気遣うようにマーちゃんが言った。
「姉貴もすぐ帰ってくると思うし。」
そんな気休めの言葉にも、私は無言のまま。
「ミホの言いたいことはよくわかるよ。でもくるみは姉貴の子だから、俺らにも関係あるだろ。現状、今くるみを見ていられるのはミホしかいないし。」
怒るわけでもなく、懇願するわけでもなく、マーちゃんの口調は淡々としていた。ただ、事実を告げるのみ。
「嫌だよ、私は。できない。」私はハッキリと告げた。
「どうしてお義父さんのとこから連れてきたの?マーちゃん、わかっていたよね?私が子供嫌いなこと。」今度はマーちゃんが沈黙した。
「子供なんて欲しくないって、昨日言ったよね?そのことでケンカになったよね?」
マーちゃんは私から視線を外し、くるみを見ている。子供なんていらないよって、かなり勇気を出して昨日言ったのに。自分の気持ちをわかってもらえていなかったことが、私はただ悲しかった。言いたいことも、聞きたいこともいっぱいある。お義姉さんも腹立たしいし、何よりも、お義父さんのところにいたくるみを、なぜわざわざ子供ぎらいの私のところに連れてきたのか。お義父さんがなんとかするべきではないか?自分の娘の、言ってみれば不始末なのだから。
“これって相沢家の問題だよね!私を巻き込まないでよ”と言いかけて言葉をのんだ。結婚したんだから私も相沢家の人間になってしまっている。結婚は、当人同士ではなく家と家がつながる事……。“相沢家の問題と切って捨てるのは、簡単だけど無責任”私の中にはまだ、古臭い正義感のかけらが残っているらしい。

結婚初っ端から、ハードル高すぎ……。
私とマーちゃんは、お互いにそれ以上何も言葉を発することなく、くるみを見ていた。相手を傷つけ、自分も傷つくような言い合いを避けるためには、もう黙るしかなかったから。

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