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箴言の第八章について

いよいよ知恵という存在がキリストとつながる!
(ヨハネ福音書を知っている僕たちにとっては)

僕の記事の第八章はこちら
できれば、見比べながら読んでください!

知恵が呼びかける。
悟りが声を上げる。

知恵がキリスト、悟りが聖霊、とするといいかもしれない
キリストとまず出会い、聖霊が送られる
→キリストを知り信仰が与えられ、聖霊の導きを得る。
※箴言の言葉の使い方は一貫しているわけではない


知恵は言う。
「思慮のない者、知恵を悟れ。」
ここで悟るものは、知恵とあるが「Prudence=慎み」と訳せる。
つまり、「へりくだり」を悟る。
「愚かな者、悟りを得よ。」
そしてこれは「Heart=心」を悟ると訳せる。
→心の奥を探ること、そこから導きを得ることがイメージされる。

知恵がどんな宝石にもまさること
どんな喜びにもまさること→我が子の名前の由来である笑
キリストの天国の譬(畑に埋められた宝に似ている)

12節は深い。
知恵と悟りは共に住むこと
知恵は、知識と慎みをも得させる→私の結婚を決意した箇所である!笑
この悟りはPrudence=慎みと訳せる上記の単語と同じである。
「知恵」は「慎み」つまり「へりくだり、思慮深さ」に導くとも見れる。
そして知識と慎み部分は、KJVにはfind out knowledge of witty inventionとあり
知恵は機知に富んだ発想を見つけ出すと言っているとも考えられる。
知恵は素晴らしいアイデアももたらすということだ。


「主を恐れる」とは、を定義
ここでこの初めの知識の具体的な説明が入る。
それは、「悪を憎むこと」
高ぶり、おごり、悪の道、偽りの言葉を憎むこと。
→悪とは、神以外のこと。神が良いと言った以外のこと
→神の導く、幸せへの道からそれること

助言(Counsel)と確かな知恵(自分の中の知)はこの「知恵」(神からの知)からくる
→ここに助言者として知恵が内に住まわれるイメージが

知恵=悟り、力がある
世を治める王も、正義を定める君主も、この知恵のもの。
→(主の祈り)国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり

「私は、私を愛するものを愛する。切に求める者は私と出会う。」
ここにキリストを感じる(マタイ7:7 捜せ、そうすれば、見いだすであろう。)

そしてここから、ヨハネの福音書1:1と繋がる。
22節ー31節にこうある。

神である主が昔、その働きを始められるとき、
そのわざの初めとして、私を造った。
大昔のまだ地のなかった時に私は立てられた。
海もなく、大いなる水の源もなかった時に、私はすでに生まれ、
山もまだ立てられず、丘もまだない時に、私はすでに生まれていた。
すなわち、神がまだ地も野も地のちりのもとをも造られなかった時だ。

神が天を造り海のおもてに大空を広げられる時に私はそこにいた。
上に空を、水の源を定め、海の境界をおき、その水が岸を越えないようにし
地の基を定められた時、私はその傍らにいて組み立てる者となり、
日々喜び、いつも御前で楽しんだ。
神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。

ヨハネの福音書1章1節ー4節は、

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

ここにキリストを見ないだろうか。
その後には、
「私を得るものは命を得る」とある。
※追記 キリストは被造物ではない。それは我々と同じ次元ではないということで、しかし神から永遠に生まれている、とする。時間や空間といったものもキリストを含む神によるのだ。理解はムズイ。


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第八章では、

知恵と悟りは一つ

主を恐れるとは

初めに神と共にあった知恵
 世界を、人を、喜んだ
 知恵を得るものは命を得る

を教えている。

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