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再読の楽しみ、川端裕人「リスクテイカー」

もう何度目か分からないけど、川端裕人の「リスクテイカー」を再読了した。ファンドの隣接業界転職したいまだとなにか勉強になるかもと思ったけど、その意味では前に学んだことの再確認しかなかった。でもそれとは別に、新しく気づいたディテールが二つあった。

読んだ人にしか分からない程度に書くと、今回気づいたディテールの一つは、ケンジ達3人の最後の買い物。若くして頂点に至った3人を日常に帰還させ、かつある種の痛快さを演出するエピソードぐらいの理解でいた。今回、これはフライ・トゥ・クオリティが最後に着く場所が生活価値という、「ファンド」と「マネー」という二つのテーマを一つに結んで閉じるリングだったのかな、と思った。もう一つは、キレイにまとめたそれっぽい言葉だとしか思えてなかった「計られないことが自由であるということ」というフレーズが、先ほどの気づきですごく泥臭い個人の実感として立ち上がってきたことだった。あの場面には、そういう言葉の方がふさわしいように思う。

新しいディテールに気づくと、より深く読み込めたと思いたくなる。でも難しいところで、それは作者の意図したものではない誤読かもしれない。国語のテストと違って誰も正解か不正解かを教えてくれない。さらに難しいのは、誤読だとしても間違ってるとは限らない。 作者は自身の経験から感じ取ったことを文章に投影する。でも作者がまだ感覚的にしか捉えられていない経験の意味を、読者が明確に理解して言語化することもある。例えば優れた評論はそういうものだ。でもその優れた評論すら、正鵠か誤読をこじらせた妄想か、正解は実のところ判断できない。これもこれで共同幻想を基盤とする価値っぽい。

だから今回気づいたディテールの理解が正しいとすれば、最初に読んだときは浅く誤読してたことになる。みんなは初読で気づいてて、正しく読めてるところかも知れない。あるいは今回こそ、僕はムダに深読みして誤読をこじらせてるかもしれない。どっちでもいい。どちらだとしても、別の読み方に気づき、そこに新しい物語が立ち上がってということ、それ自体が再読の楽しみの極みだ。再読が心地よいだけでなく、興奮を与えるのはこんな時だ。その楽しみの価値は、僕が計れればいい。

「リスクテイカー」は一読して面白かった。だから再読したのだけど、再読して再び面白い小説だった。再読どころか再再再読とかどこかの歌のタイトルみたいなことになってるけどね。でもそのうち、またもう一つ「再」の字を増やすと思う。

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