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アニメ『チェンソーマン』ちゃんと観る(2)

前回にひきつづき、MAPPA制作・中山竜監督による2022年のアニメ『チェンソーマン』を、あらためてちゃんと観てみようという記事です。

(前回記事はこちら。ただこれは基礎確認事項に集中しすぎていたし、ちょっとしかつめらしく書きすぎていた気もする。今回はもうすこしふみこんだ内容にできれば、とかんがえています)


今回は、全12話のなかでもとくに傑出した出来だとかんじた、8話「銃声」をふみこんでみてみようとおもう。絵コンテはこのあいだ『呪術廻戦』2期の監督もやっていた御所園翔太さん。演出にはその御所園さんと、佐藤威さんが連名している。この挿話、各場面の演出のみごとさはさることながら、作品が選択した「映画的な表現」にたいしても、一種の批評的な解とでもいうべき演出アプローチを発見していて、とにかく比類ない。

で、以下はちょっとクドくなるかもしれないが、具体的に文章で画面を起こしてから説明にむかう。というのもこの挿話、画面推移やそこで展開される運動があまりにも緊密すぎて、スクリーンショットからわかる構図などの情報だけではたぶんなにもつたわらないから。この「具体的に記述せざるをえないこと」から、この挿話がもっている時空間の持続感覚がすこしでもとどけばうれしい。

(もちろんどういう画面運びだったかがおもいだされればいいので、めんどうだなというひとは適宜、スクショを付してある箇所は読みとばしてもらって大丈夫です)


1.存在不安の画面――アバン

まずはアバンからみてみたいのだけれど、このアバンがまたすごくて、みるたび構図選択やカッティングの的確さにウットリしてしまう。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA

ファーストカットがまず「ドアノブの超クロースアップ」。この時点であまりみたことがない画で、背筋がシャンとする(もちろん以前の記事でもいったとおり、世界の蝶番としての「ドア」という主題がここでも踏襲されている)。そこへおもむろに翳がさし、その翳がゆれる運動が緻密につくられるなか、「よいしょっ、と……鍵はぁ……」と姫野の声も聞こえてくる。キーケースのチャラチャラいう音、「あったあった」という声、カチャリと鍵が挿しこまれる音がつづけざまちいさく聞こえ、ノブに手がかけられる。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA

扉がひらくと同時にカットも転換、室内にふみこんだ彼女の「脚」だけが、こんどは地面にほどちかい視点からとらえられる(姫野に背負われているデンジの脚もふくめ、画面には「四本脚」だけがうつっている)。脚は器用に身をよじらせて靴を脱ぎすてていく。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
© 藤本タツキ/集英社・MAPPA

ふたたびドアノブのクロースアップがみじかくカットインし、リビングへつづくドアがあけられる。そこではじめてデンジを背負った姫野の全身像もとらえられた。ただし構図はがらんとしたリビングの、おそらくはベランダだろう「外」からの、窓越しの視点位置を選択している(なかば窃視者からのそれにちかい)。やおら姫野は背負っていたデンジをその場で床に降ろそうとし、いきおい態勢をくずして顔から床にたおれこむ。衝撃で三つ縦にならんでいた椅子のうち、いちばん画面手前側にあったものがぐらりと揺れ、たおれる。するとまるで力が伝播していったかのように、その「椅子が指した方向」に位置していたカーテンが、外からの微風を受けてかわずかに揺れてみせる(同時にデンジがちいさくうめき声をあげる)。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA

「もぉーっ」と音をあげつつ姫野が腰をあげると、それに乗じてカットがまた変わり、こんどはキッチンの「コンロ視点」のような構図に変わる。光を受けわずかに反射をかえす薬缶が画面左手前をおおきく占め、いっぽう構図の右奥に位置する矩形の、おそらくは寝室だろう空間にデンジを背負いなおした姫野のすがたがみえる。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
© 藤本タツキ/集英社・MAPPA

デンジをベッドに降ろし、いきおい姫野もまた後方へたおれこむと、カットが変わりここではじめてふたりの顔が、表情までよくわかるおおきさでならんでとらえられる。ちいさく伸びをしてから姫野はすぐまた起きあがり(ここでさきほどの「コンロ視点」構図にもどる)、よろめきながらその場にしゃがみこむと、デンジの履いていたサンダルの右をまず脱がしにかかる。ついで左を脱がせるときにカットが変わり、当の足元がクロースアップされる。脱がし終えたサンダルを両手にかかえ、鼻歌をうたいながらフラフラとした足取りで姫野は寝室をあとにする。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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カットが変わり玄関。壁のむこうから姫野の「手」だけが顔をのぞかせ、サンダルを画面こちら側にむけ投げつける(「カラッ、カラン」とかわいた音をたて、土間に着地したサンダルがクロースアップでとらえられる)。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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すぐさまカットが変わってまた空間は飛び、こんどは脱衣所らしき三面鏡越しに、すでにスーツの上着を脱ぎ、それを小脇にかかえた状態の姫野がうつってみえている。やはり鼻歌をうたったまま、しどけなくからだを壁にもたせかけ、不精、あいた片手だけでシャツのボタンをはずしていく。背にしていたドアを閉め、浴室のあるのだろう方向(=鏡越しでむかって画面の右側)へとあゆんでゆく折、左側の鏡にもそのすがたがうつされ、一時的にその像が「ふたり」になる。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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三たびドアノブのクロースアップ。だがこんどは、ゆるやかに画面が引いていくよわいパン運動もかさねられ、さらにそこへ持続したままの鼻歌と、シャワーの水音が浴室らしき反響をともない、とおく聞こえつづけている。パン運動のなかでカットが変わり、無人のリビング、ついで寝室のベッドのうえでひとりうなされているデンジのすがた((胸から下が、手前の遮蔽物――おそらくは天井に据えられた照明――に「切断」されている)。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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カットが変わると、こんどは「冷蔵庫の内側からの視点」。シャワー後なのだろう姫野がキャミソールすがたで缶ビールを手にとり、かるく冷気ですずんでから、冷蔵庫のドアを閉めると同時にカットが変わる。さきほどたおされた椅子が画面左をおおきく占め、右側ではカーテンが微風にゆらめいている、奥行きを強調した構図のむこう、冷蔵庫の前で姫野がちいさくうずくまっていて、やはり不精、その場で缶ビールをさっそくあおりはじめる。あいまいな記憶に首をかしげていると、「水、みずぅ……」とうめくデンジの声がとおく「フレーム外から」聞こえてくる。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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すると画面は姫野視点らしき主観ショットへと変わる。ゆっくり寝室の、ベッドからまろび出たデンジの「片足」めがけ姫野があゆんでゆくその運動がとらえられると、視点はそのままベッドのうえに仰向けでたおれ、うめいているデンジのうえにまたがりだす。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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あおられたビール缶が視界をおおきく占めたあと、それを裏返すようにしてカットが変わり、姫野の酩酊した表情があらわになる。そのままこうべが下方へくだり、デンジの口内へと口移しでビールがそそがれていく。驚愕にみひらかれるデンジの瞳。口もとからボタボタ床にこぼれ落ちるビールにもみじかくカットが割られた。酩酊をかたどる不安定な構図の連打(鏡の反射がふたたび利用される)が連打されるなか、ゲロと酒でもうろうとしたデンジにたいし、記憶の混濁した姫野が一方的に、会話としてなりたたない話をふっかけつづける。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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わずかな間ののち、おもむろに姫野がベッドにたおれこんで――その衝撃を受け、ベッドの外にまろび出ていたデンジの片脚がぐわんと揺れる(そのむこうには、床に置かれたビール缶もうつっている)カットがみじかく挿入される――、ベッドのうえのふたりの視線の交錯が、たがいに「横向き」の、天地無用のかたちで切り返されると、姫野がデンジの耳にささやく――「しちゃう?」

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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瞬間、ベッドの下からの奇妙な、窃視というよりもはや盗聴者視点のような構図により、さきほど一瞬だけしめされた、はみ出たデンジの脚が驚愕のいきおいでビクつき、かたわらのビール缶を蹴る。たおれた缶がビールをぶちまけ――ここでようやくオープニングが来る。

確認作業がたのしくて、つい長々と書きつらねてしまった。まずこの一連でおもわれるのが、空間組成が一見しただけだとぜんぜんわからないこと。ごくシンプルなはずのマンションの一室の部屋配置が、構図選択のバリエーションにより異様にふくざつなものにおもえてしまう。くわえて人物の全体像もまともにあたえられない。デンジや姫野は「手」や「脚」のクロースアップにしばしば「裁断」されてしまう。さっきいった空間組成の妙なとらえにくさは、このクロースアップの頻出がとうぜん影響してもいる。ひとにしろ空間にしろ、全体が終始ぼやけているのだ。

それでも混乱せずに画面の連鎖を理解できてしまうのは、ぼんやりとおくで聞こえている声や環境音が時間の連続性を担保しつつ、かつ、ふしぶしの「アクションつなぎ」が空間をつなぎとめているからだろう。ドアの開閉。「たおれる(たおれこむ)/たおす」アクションの連鎖。サンダルを脱がせ、それを投げつける一連。それらの帰結としての、ベッドからまろび出た裸足がビールの缶を蹴る、シークエンスの「オチ」。空間や人物像の全貌がわからないなかでも、こうした細部の連鎖が点から点へ、という「読み筋」をつくりあげていて、これにより不安定な画面のコンティニュイティが維持されている。アクションが道しるべになっているのだ。もちろんそれを構成するカット割りも絶品。投げられたサンダルのクロースアップを一瞬入れたり、「カッティングこそがアクションを生む」という基本にも、すごく自覚的なことがよくわかる。

この場面でかたどられているのは、とうぜん、まずもって「酩酊」。くわえてその不安定さのせいか、奇妙に画面が終始、異様な不穏さをまとってもいる。手足のクロースアップ、あるいは遮蔽物による人体の「切断」構図はまずそれじたいが不吉。三面鏡にうつり、像がふたつに増殖する姫野なども同様、なにか不気味な予兆にみちている。存在不安的、とでもいえばいいのだろうか。いちばんちかいのはホラー映画の文法だろう。あの「風に揺れるカーテン」などをみると、明確に往年の黒沢清などが参照されているんじゃないかともおもう。

窃視者めいたカメラ位置、エンプティ・ショットなどには、あたかもこの映像に撮影者がいて、その撮影者の謎にみちた意図が反映されているようにもみえる。まるで亡霊がそこにいるかのような。それでただ日常を撮っているだけの画面に、「存在」のもつ奇妙な違和感が刻印されてみえる。そこにたとえば「音」の使い方などもつよく奏功しているだろう。画面にうつっているのはだれもいないリビングでも、とおく聞こえてくるシャワーの水音と鼻歌が、そこにだれか「いる」ことをたしかにあかしだてている。画面上にじっさいみえているものと、それがうつしだすものに微妙なズレがあり、いわば「みえていないのにみえている」ような画面が終始つなげられている。その符牒として、たとえば画面外から聞こえてくる「音」が、換喩表現の役割をになっていること。そうして、手足のクロースアップのような「細部」ばかりがつるべ打ちされていること。もちろんこれらは、この挿話の後半パートで、懐やバッグからとりだされる「銃」および画面外からひびきわたる「銃声」を予兆してもいる。ようは姫野の死が、この時点ですでに二重うつしになっているのではないか。


2.「一線を越える運動」の視覚化

翌朝になると、アバン時点では存在だけが(カーテンの換喩表現と「カメラ位置」により)かすかに示唆されつつ、けっきょく解放されることのなかった「外」の空間=「ベランダ」が使用解禁される(原作の展開をうまく空間演出におとしこんでいる)。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA

まず、これはリビングにあった椅子のうえからの視点だろうか、矩形がならんだ窓のむこうのベランダでふたり正対してテーブルにつき、朝食のサンドイッチにありついているデンジと姫野のすがたがとらえられる。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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姫野がデンジに昨日のことをたずねる(姫野は酔っぱらって内実を記憶していない)とカットが変わって、デンジの側から正面構図で姫野がうつしだされた。「誰がゲロ女とやっかよ」「俺は初めてはマキマさんって決めたんだ」とすげなく返答するデンジをとらえるその構図は、テーブルに身を乗りだした姫野の肩越し(=外側からの切り返し)で、デンジ当人の視線もまた見下ろす位置の市街にむけられている(=姫野と視点の交錯がない)。ムスっとした表情で「あーよかったよかった」「未成年に手ぇ出したら逮捕だからねー、逮捕」とかえす姫野は、さきほどとおなじ正面構図のまま。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA

ふたたび窓越しの、室内――だがこんどはより窓と床にちかい場所から、見上げるような構図――からの視点位置がとられ、しばらくの「間」が表現される。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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そのうち姫野のほうが「デンジ君は変わってるね、普通ならこの状況、気まずくて帰ると思うんだけど」と最初に口をひらく(このとき姫野の横顔アップにカットが割られる。ちょうど窓側視点でズームをほどこしたような按配)。「ハァ? タダ飯食えるのになんで帰んだよ」と返す刀で口を聞くデンジは、構図の右側にちいさく存在を片寄せられており、そのぶん画面の左側におおきく空隙ができ、不均衡をかたどっている。この横顔の姫野/「間の抜けた」構図のデンジ間での、マキマをめぐるギャグ的やり取りがみじかくはやいカッティングで反復されたあと、

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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「よしっ、私がデンジ君とマキマさんをくっつけてあげようか」と姫野が切りだしたとたん、姫野は正面向き構図に変わる。「えーっ、マジ!?」と歓喜に身を乗りだすデンジもまた、うってかわってテーブル下方からの、見上げるような構図でその動作をとらえられる。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA

三たび横向き・水平構図で、テーブルについたデンジと姫野の対面――ただし、こんどは「室内からの、窓越しの」視点ではなく、カメラ位置がベランダにまで「ふみこんで」いることに気づく。そこで姫野から、じぶんがデンジとマキマをくっつけるかわり、姫野とアキの関係を応援してほしいという「密約」がもちかけられる。

この直後の画面推移にはほんとうに度肝を抜かれた。以下のスクリーンショットでうまく伝わるかはわからないが――

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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以上はワンカット内のできごと。姫野の背側から、画面奥の「対岸」にデンジがいる構図。むかって画面左側から右側にむけ、「カメラ」が――あたかも、ほんとうに撮影者がいるかのようなテイで――ゆっくりと水平に移動していく、ふしぎなムーブメントがわざわざ作画表現によりつくられている。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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ほどなく視点位置はなんとベランダの外に出、中空からふたりを見下ろすような構図がとられる。「アイツ(=アキ)のどこが好きなの?」というデンジに、「顔」と即答する姫野にみじかくカットが割かれるが、このときの姫野の横顔もさきほどと真逆の「右向き」が解禁されており、ちょうど「ベランダの外」からズームしたようなおもむきになっている。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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そうしてその返答を受け、「いいぜ、乗った、同盟組もうぜ」と笑みを浮かべるデンジにたいして、この場では初の正面構図が採用される。そんなデンジに友達どうしの同盟締結をもちだす姫野も、同様に正面構図だ――ここではじめてふたりの、正面対正面の「切り返し」が成立した。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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アキとパワーを連れ、たまに朝食を食べに来るよう姫野がデンジをうながすと、やはりベランダの外側からの並列構図で、デンジがぼんやり外に目を向け「マキマさんも来ねえかなあ……」とつぶやく。その声と同時に、引きの画でマンションの全景がとらえられる。

このベランダ場面、もうおわかりかとおもうけれど、最終的に「密約」を締結するにいたるふたりの会話内容にそくし、カットの割り方と映し方のアプローチがすごくロジカルに組み立てられていて、ちょっと唖然としてしまうほどすばらしい。端的にいってしまうと、ここでの演出アプローチは「内から外にでること」を軸に設計されているとおもう。昨晩の室内からベランダに出ること、がまずは第一。そこから明確にカメラ位置を意識した構図が、最初は屋内から窓越し、ついでベランダ内へとふみこみ、ふたりの関係成就とともに、最後はベランダの外へと出る……という段階をふんだ変化をカッティングの刻々にともない表現している。

そうしてその重要なトリガーとなっていたのが、あの奇妙な、左から右へ水平に移動する「カメラムーブメントのような画面変化」だった。あれはおそらく、「外に出る」ことの――もっといえば、「一線を越える」ことの表現だったのではないか。正対している姫野‐デンジ間にいっぽんの線を引いたとき、ちょうどカメラがそれを「くぐり」、屋内方面(=左側)からベランダ外方面(=右側)へと「抜け出る」運動が、ここでは可視化されていたのだ。だからこそその結果のようにして、直後の視点位置は「ベランダの外側からの視点」なる特異な構図が選択され、また姫野の横顔も逆側からの視点が解禁されることになった。そうして直後、密約の締結と同時にふたりの「正面での切り返し」も解禁された。

ここのなにがすごいかって、原作およびアニメぜんたいから取りだした「内から外に出る」という主題の表現として、たんに人物をうごかすのみならず、「架空のカメラ」をうごかすことでそれを成立させていること。ようは「カメラ」のほうがここでは「主人公」になっているのだ。とうぜんこれは、このアニメぜんたいが実写映画のようなカメラ位置を選択する、「映画のような演出」をベースにしていたからこそ可能になった演出でもある。このアイデアを出したのがクレジットどおり演出ふたりのどちらかなのであれば、これは演出家が作品ないしアニメぜんたいのテーマを「批評的に」再解釈した結果のようにみえる。

もっといえば、この「外に出る」=「一線を越える」運動にはさらに重要な意味もある。すでに述べたとおり、アバン時点では一貫して実写映画でも可能なカメラ位置が模索され、そのなかでホラー映画のような、存在論的ともいえる領域をつこうとする演出がほどこされていた。そうして、その映画的演出の連続性があるかぎりで、いま述べたベランダ場面での「外に出る」「カメラ演出」も可能になっていた。ところがカメラが「一線を越えた」あとには、ベランダ外の、中空からの視点位置という、およそ実写映画では不可能なカメラポジションの構図が選択されてしまっている。その意味ではこの演出は映画ですら不可能で、「映画のようなアニメ」だからこそ成立しえたものなのだ。この運動を「映画からアニメへ」の寓喩ととればさすがに安直すぎるかもしれないが、そうでなくともこの直後、この挿話の――のみならず、作品ぜんたいの――ギアが変わり、急転直下の大破壊がはじまっていく点をおもえば、この文字どおり「一線を越える」運動には作劇レベルでの重要な意味合いもある。日常をえんじていた映画のようなカメラが、一線を越えたのち、その唐突な破産をみる――その表現として宙吊りのあのカメラ位置が選択されたのだとしたら、ほかでもないその視点は、いわば彼岸からの「亡霊の視点」だったというべきだろう。


3.飛躍と「奥からとりだされるもの」

以降の展開についてはアクションが主眼になるからそこはあらためてみてもらうとして、重要な箇所だけをかんたんに記述するにとどめておく。アバンの「酩酊した画面」が時空間の安定性の不穏をかたどり、ベランダ場面が時空間の安定の裏側で「一線を越える」運動を視覚化していた、と要約すれば、以降の展開がかたどるのは「飛躍」だろう。日常から、急転直下の死へ――

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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Aパートの末尾、マキマの襲撃場面。最初、空間をぶち抜くような横移動――これも「一線を越える」運動かもしれない――で新幹線のほそながい空間が提示されたあと、車外→車内→車外→車内という、空間を「貫く」ような構図が逐次選択されていく。ほどなく「画面外の音」(=バッグからひそやかに銃を取りだす音や銃声)と「切断された身体細部」(=銃をもつ手)が画面上にあらわれ、死が顕在化する。不穏にみちた時間感覚はいわずもがな、銃をぬきとる運動の「渦中」だけをとりだした、一瞬挿入されるクロースアップの運動感覚がとくにすばらしい。スクリーンショットは引用しなかったが、このときのマキマの死顔は異様にエロティック。3Dモデルの質感を意図的にのこしているのだろうか。未遂に終わったデンジと姫野の交接がもたらすはずだったエクスタシーが、ズレて彼女に顕在化した――という悪辣な解釈すら、そこにはしのばされていたかもしれない。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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Bパート冒頭、ラーメン屋にいたデンジが箸でもちあげる餃子の、スローモーションになった時間と同時並行で、刺客たちにより銃殺される直前の、市井のデビルハンターたちのすがたがつづられていくシークエンスもまたすばらしい。牛尾憲輔の劇伴はながれっぱなしで、文字どおり「タガが外れた」かのような時空間の異常を察知させる。むろん餃子にしたたったタレはいましもながされようとする血の謂であり、「もちあげられる」運動は惨劇ののろしの寓意、また日常/非日常の陸続としての食事という意味合いもとうぜんあるだろう。時間の「たわみ」の表現がみごとだ。不穏の暴発としての「細部」の増殖=銃をもつ「手」が点綴されるあいまに、風に揺れるチューリップの画をみじかくインサートするなどの抒情感覚もいい。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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悲劇の符牒はやはり「フレーム外からの音」。とおくひびいた音は花火の音とかんちがいされた。ラーメン屋でぼそりとつぶやかれる、サムライソードの「声」もまた、画面外からの音の系列だ(これじたいがすでに「銃声」なのだとすらいえるだろう)。しかもサムライソードの座っている席は、前述したデンジと姫野のベランダ場面における、カメラが「一線を越えた」そのさきの場所=「亡霊の位置」でもある。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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その後はじまるバトルシークエンスでは、序盤はかろうじてでも維持されていた「映画的な」時空間のコンティニュイティを完膚なきまで破壊するようなかたちで、「飛躍」が運動として連続する。アキが呼びだした狐の悪魔によるサムライソードの捕食。それを突き破ってあらわれたサムライソードの豹変。釘状の刀をもちい、サムライソードと対峙するアキの「おもたい」アクション(写実的な作画表現がまたすばらしい)ののち、「呪い」によりサムライソードを磔にするカースの、「ジャンプ・カット」による一撃。画面上に植物のように繁茂しはじめ、視界をおおう、剥き出しになった瓦礫や鉄棒などの遮蔽物。そうしてアキじしんの顔が「死角」となり、その向こうからやはり唐突にあらわれる刺客=沢渡。サムライソードの復活。そのサムライソードの、「瞬間移動」による一閃。そうして蛇の悪魔の「丸呑み」。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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そうして、窮地におちいったアキを救うため、幽霊の悪魔に身のすべてを捧ぐことをちかった姫野が、腕を、足を順にうしなっていく過程。むろんこれはいくども示唆してきたとおり、冒頭時点でしめされていた身体欠損イメージの現働化だ。しかもこの場面では挿話中、ゆいいつとなる「モノローグ」が解禁されもする。「アキ君は、泣くことができる」からはじまる一連の独白、その「声」もやはり、フレーム外からの音――つまり「彼岸」からのそれをかたどる。つまり、この最後の「声」こそが、姫野の――あるいは姫野という「幽霊」の謂だったということだろう。おそるべき演出の一貫性。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA
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そういえば挿話中、言及していなかった場面があった。デンジと姫野の酩酊の夜、その顛末のことだ。サンダルを脱がされるアクションを基点にして、あのあと心を決めたデンジが姫野にどんどん衣服を脱がされていく運動が陸続していた。けれどもそれはデンジのズボンのポケットから包装を剥がされた、むきだしの「チュッパチャップス」が出てくることで止まった。そこへ回想がだしぬけに流入、それがマキマからあたえられた「ファースト間接キス」の符牒であり、その想起がデンジを行為の成就からとおざける。チュッパチャップスはその「思い出せない」がつづく夜のなか、あたかもいっぽんの松明のようにして、デンジをみちびいたのだ。あるいは「剥かれていく」運動の果てにそれがあらわれたことをおもえば、デンジという存在を解いていったあと、最後にのこされる人間性の軸のようなものが、いまはそのチュッパチャップスに託された「想い」だったということだろう。

© 藤本タツキ/集英社・MAPPA

最期にのこされた眼帯が、しだいに翳のなかからあかるみになっていく運動と、アバン、あのドアノブにかかりゆれていた、「姫野の存在をあかす」翳の運動もまた、最初と最後で対比になっていたかもしれない

それでこの「剥かれていく」運動は、挿話末尾の姫野が「衣服だけをのこし」、からだだけ順番に消えていく過程と対比になっていたとおもう。だからのこされる「想い」としてのそれも、即物的だったデンジのチュッパチャップスにたいし、「声」という亡霊的な対象にとどめられる。むろん噴出する「回想」と、「モノローグ」も対置されていたとおもう。みごとな再構成だとしかいいようがない。ついでにいうと、つぎの9話――こちらも負けずおとらず傑出した回――では、マキマが服を着替えるアニメオリジナルのシーンを、姫野との対比で配剤していたりもする(あとこれは原作のストーリーテリングのうまさだけれど、デンジのチュッパチャップスとアキの「最後の一本」も対比だろう)。とはいえさすがに書きすぎてしまったので、あとの挿話についてはぜひ、再見していただければ。

以下はおまけ。「剥かれていく」運動の果てに、むきだしの「想い」が露顕する……という過程で想起した、べつの作品の傑作回がひとつあった。おなじ御所園翔太さんが絵コンテ・演出を担当していた、『呪術廻戦』1期17話「京都姉妹校交流会-団体戦③-」がそう。真希対霞、桃対野薔薇、真希対真依の「女どうしの闘い」を三連結することで、禪院家にまつわりつく女の桎梏――それを視覚的にあらわす森のロケーションと「翳」――と、対置される野薔薇や真希の光輝が対比的にあらわされる。いずれのバトルも「落とす」「引きずり降ろす」「降りてくる」といった上下での運動が一貫し、キャラクター間の関係を明確に空間表現へおとしこんでもいるのだけれど、くわえて当の戦闘が、たとえば殺陣をカメラの回り込みで演出していくような常套をとらず、「切り返し」中心の表現に寄っていることも重要。ようは画面の「奥行き方向」にたいするアプローチが終始一貫しているのだ。そうしてその奥行き方向から最終的に、彼女たちの「とっておき」が引きだされる展開が反復されてもいる。真希の戦闘センスを如実にしめす暗器。生かすか殺すか、男か女かの二項対立を超え、「わたしはわたし」といわんばかりとりだされる野薔薇のピコピコハンマー。そうして、真依が秘匿していた術式そのもの=「最後の弾丸」。

©芥見下々/集英社・呪術廻戦製作委員会

この弾丸と、あっけなくそれを「受けとめられた」あと真依の口から発せられる「本心」――そうして最後に噴出してくる、「つながれた手と手」の回想もまた「奥行き方向」からとりだされるもののレパートリーとして理解されうる。回想の使用、想いの吐露、それから「手」という身体部位の効果的使用とともに、上記してきた『チェンソーマン』8話との呼応がみられる回だとおもう。ついでにいうと、この「最後の弾丸」は3D作画だから、アニメという表現における「奥行き」方向へのアプローチとして、3D作画をもちいることじたいの隠喩にもなりえている(御所園さんはBlenderを作画へ積極的にとりいれることで知られる)。禪院家の術師はアニメにまつわる術式使いがおおいが、たとえば真希の天与呪縛を「超作画」の謂に、真依のそれを3Dのレタリングにたとえてみたらどうだろう――なんていうのは与太だけれど、たとえば原作17巻あたりの内容はあきらかにこの挿話からインスパイアされていたような気がする。アニメの内容を受けてマンガが「覚醒」していた。

©芥見下々/集英社・呪術廻戦製作委員会

さっこんは原作とメディアミックス作品との距離感があらためて問いなおされるようになって、じぶんでもいろいろかんがえる機会がふえたのだけれども、基本的に幸福なメディアミックス作品というのは、原作にもフィードバックをあたえるようなソレなんじゃないか、とおもう。それはたんに売り上げ的な意味合いだけでなく、原作側のクリエイション能力におおきな示唆をあたえるような作品がのぞましいということ。精錬されたアニメの表現が原作のマンガ表現に輸入されたり、あるいは映画の富がアニメ演出に再利用されることで、あたらしい表現の発明や、原作世界の深化/クリエイターの進化に貢献しうること――それがドラマ化の例であれ、アニメ化であれ映画化であれコミカライズであれ舞台化であれ、メディアミックス作品がほんらい理想とすべき態度で、いまのべた『チェンソーマン』や『呪術廻戦』にも、まあいろんな意見はあれど、すくなからずそれにふさう強度があったのではないかとおもう。

そういう判断もけっきょくは作品をちゃんと観てみないとなんにもわからないわけで、あんまへんな世論にまどわされず、つねに作品に立ちかえるようにしよう、というのがごく私的な、自戒も込みでの意見でした。

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