cs no.005 忘るべき子どもたち

 記録開始。ただし個人情報は秘匿される。
 退行催眠プロセス開始。脳波の変性を確認。急速眼球運動を確認。
 セッション開始。

    *

「はじまったわ」
 X市内の忘育機関に勤務する中堅の忘師である私は、そう言った。
 傍らのカウチには、私の患者であり、つまり学生でもある若い男が、目を閉じて横たわっていた。
「大丈夫、リラックスして。このセッションは三十分で終わるから」
 男の目蓋を見つめながら私が言うと、彼は小さく頷いて深く息を吐いた。
 私は同様に深呼吸をして、電子カルテで男の経歴に改めて目を通した。

 二〇三〇年生まれ。
 二〇四二年に脳内インプラント型の学習補助機器を埋め込み。
 二〇五〇年に職業準備学校を卒業。
 前後して二カ月で加速学習を実施し、教員採用試験に合格。
 以後三年間、X市内のY中学校に勤務。
 二〇五三年六月――つまり今月――同中学校を退職。
 同月、「学習棄却の必要あり」と自ら訴えて忘育機関に入学。

 グレーだな、と私は思った。
 三年間という期間はたしかに、仕事を通じて余計な知識や判断バイアスが贅肉のように身についてしまうには十分な長さだ。忘育機関への入学を拒まれることはまずない。現にこうして学生として目の前にいる。
 しかし失業給付が下りるかどうかは微妙なところだ。これまでのキャリアを捨て、過学習を巻き戻して真新しい労働人材に戻ろうとするだけの正当な理由がなければ、政府は自己都合退職者に簡単に金を出したりしない。
 その「正当な理由」が存在するか否かを判断するのも、忘師である私の仕事のひとつなのだった。
 そして鈴の音が鳴り、学生が完全に退行催眠状態に入ったことを告げた。


忘師
 まずは、今年のことを教えて。

学生
 年初には、もう限界だ、と思っていました。
 すべてがめちゃくちゃで、昨年からひどいことが何度も起こっていた。
 生徒たちの目を見るのが怖かった。
 でも、春までは頑張ってほしいと校長に言われて。
 なんとか続けましたが、やっぱり早く辞めるべきだった。
 僕はもう壊れてしまった。

忘師
 辛かったのね。でも安心して、記憶は記憶。あなたをもう傷つけない。
 何があったのか、もう少し教えて。

学生
 ……。

忘師
 大丈夫、秘密は守られる。
 それに、話さないと、忘れさせてあげられない。

学生
 生徒の自殺未遂があったんです。それも、何度も。
 刃物、薬物、飛び降り。どれもある日突然、脈絡もなく起こった。
 でも、どれだけ話を聞いても理由が分からなかった。
 彼らはあまりにも、なんというか、カジュアルにそれをやっていた。
 まるで、ビデオゲームのキャラクターの動作を試しているみたいに。
 教室全体が静かに狂っていたんです。

忘師
 学校全体が、何か、問題を抱えていたということ?

学生
 たしかに、Y中学校は貧しい地域にあって、荒れていました。
 良い学校に通う子どもは将来、先生、あなたのように立派な仕事に就ける。
 高度専門家や研究者、経営者、クリエイターにね。
 でも僕の生徒たちは違います。
 脳内インプラントを使えば、知識は瞬く間に習得できる。
 だから育ちの違いだけが将来を分ける。逆転のチャンスはほぼないんです。

忘師
 ……続けて。

生徒
 悲観しすぎだと、先生は思うのでしょう。加速学習は教育の不平等を是正したと。
 しかし僕の生徒たちは、卒業後すぐに即席の熟練労働者になるしかない。
 そしていずれ人工知能に仕事を代替される。
 より条件の悪い仕事に移り、いずれ心身の健康を失う。
 忘育機関で知識とトラウマを消して、また加速学習を受けて、新しい職場に戻る。
 死ぬまでそれを繰り返すんです。
 彼らは、そのことをよく理解していた。
 
忘師
 子どもたちの精神状態は、不安定だったのね。

学生
 でも、少なくとも三年前は、あんなに狂ってはいなかったと思います。
 僕たち教師に反発しつつ、みな授業には真剣だった。生きるためですから。
 僕が教えられるのは、仕事に潰されないためのセルフケア。
 そして、不安定な収入で生きていくための資産防衛の方法。それくらいです。
 フィットネスや瞑想、アロマテラピー、音楽、家事全般、投資、各種の社会保障制度。
 それ以上の内容を教えても無駄です。労働市場の需給は一年で様変わりする。
 どのみち、数年後には忘れる羽目になるかもしれない。

忘師
 催眠が浅くなってるわ。深呼吸して。
 ……いいわ、もう少し遡りましょう。
 二年目には何があった?

学生
 ……うまく思い出せません。

忘師
 力を抜いて。あなたの脳は絶対に覚えている。

学生
 二年目は、平穏な年でした。
 ……。
 いや、違ったのかもしれない。
 あの頃から、狂気の水面は静かに上がってきていた。
 アイ、エル、ビー(※個人名につき匿名化済み)。
 みな、段々とおかしくなりはじめていた。

忘師
 何か、具体的な出来事を思い出せる?

学生
 何か、何かがあった。
 あるときから、生徒たちのセルフケアがうまくいかなくなった。
 ……そうだ。
 眼だ。
 あの眼、恐ろしい眼。

忘師
 深呼吸して。いい? 力を抜いて。
 すべて終わったこと、これから忘れることなの。
 ……そう、いいわ。ゆっくりでいいの。

学生
 生徒たちの眼が、ひとりふたりと変わっていったんです。
 その後しばらくして、順番におかしくなっていった。
 目つきの問題じゃない。
 ……眼が、揺れるんですよ。きょろきょろ、ぐるぐると。
 普通に過ごしているのに、眼球だけが脈絡もなく、激しく運動していたんです。
 どうして今まで忘れていたんだろう。
 先生、あれは何だったんでしょう。
 怖い。思い出したくなかった。これも忘れられますか、先生、ねえ。

忘師
 大丈夫。このセッションが終わったら、もう二度と思い出さない。
 だから、もっと話を聞かせて。もっと遡って、記憶の深くへ降りて。
 子どもたちに異変が起こる前、何があった?

学生
 分かりました。でも、とても怖い。
 僕は何かを見ていた。
 そう、着任間もない頃。何かがあった。一年目に。
 ……夏だ。
 僕は仕事に慣れてきて、子どもたちの個性も少しずつ分かりつつあった。
 その頃に、授業の一環で個人カウンセリングがあったんです。
 アイ、エル、ビー……ああ、あとそれに、エム。
 エムは真面目な子でした。しかし難しい生徒だった。
 僕の頭の中には、脳内インプラントが二カ月で叩き込んだ心理分析ノウハウがあった。
 でも、エムの内面はうまく掴めなかった。
 ……すみません、ひとりの生徒のことばかり。もっと全体の話を。

忘師
 いいの。そのまま、エムという子の話を続けて。
 あなたがそれを話しはじめたことに、きっと意味がある。

学生
 でも、これ以上は何も
 ……。
 いや、そうだ。
 エムは言っていた。
 自分の中で、何かが開きかけていると言った。
 誰かが、囁きかけてくるのだと。
 僕は念のため、エムの脳内インプラントの動作チェックをした。
 しかし、問題はないようだった。
 だから僕はエムに問いかけたんです。もう少し具体的に話してみて、と。
 ……そうだ、だからきっと、僕のせいだったんだ!

忘師
 落ち着いて、記憶は記憶。あなたは大丈夫よ。
 誰も傷つけない。深呼吸して。深呼吸して。

 (※学生のバイタルサイン不安定につき、一時中断)

 吸って、吐いて。吸って、吐いて。
 ……そう、大丈夫。戻ってきた。

学生
 先生、僕がエムに聞いたのがいけなかった。
 あのときからエムはおかしくなった。
 あの眼が、眼がぐるぐると動いて……。
 それが、他の子どもたちにもうつっていったんです。
 それに僕は気づいていたんだ。気づいていた。
 なのに、怖くて誰にも言えなかった。とにかく忘れようとした。 
 その後、教室が崩壊するのをただ、見過ごしたんだ。

忘師
 今は判断しないで、ただ話して。
 エムは、なんと答えたの。

学生
 はじめは何も答えなかった。
 でも、何度か問いかけるうちにこう言ったんです。
 頭の中が明るくなったんだ、と。
 光が差し込んで、頭蓋の中の闇が晴れて、目覚めたのだと。
 そしてエムは笑った。
 ほとんど音を立てずに、口角を吊り上げて、喉の奥まで見せて。
 そして、痙攣するように笑ったんです。


 私はそこまで聞いて確信した。
 そして、普段はまず使うことのない緊急連絡先をコールして、早口で告げた。
「今すぐ、Y中学校にスタッフを送って。〈恐るべき子どもたち〉が出てしまった。間違いない。ウルリッヒ哄笑が確認できた。発生は――約三年前。やめて、手遅れなんかじゃない。あなたの仕事をして」
 内線を切ると、男が、催眠状態のまま私に尋ねた。
「先生、僕は何を見たんですか」
「何でもないの。あなたのせいじゃない。忘れて」と私は言った。
「そのためにここに来たんでしょう」

    *

 セッションの再生を中断。
 以上が、二〇五〇年に発生した史上最悪の学習汚染事故がいかに発覚したかについての、ある女性忘師の証言である。超人的な知能と引き換えに人格を破壊する変性知性が、どのように振る舞い、どのように周囲に伝染するかを示唆する貴重な資料となっている。
 この証言は二〇六二年七月、同忘師の退職時に実施した学習棄却セッションの際に記録された。担当者は汎用人工知能セレマ四〇一。ただし同モデルは二〇六八年にセレマ五〇五に代替され、学習棄却を施された上で、現在はX市内の廃品回収業務に従事している。
 俗に〈恐るべき子どもたち〉と呼ばれる変性知性が発生するメカニズムは、脳内インプラントが関わるということ以外、現在も解明されていない。
 しかし我々は加速学習を、それによる人材の最適配置を、捨てることはできない。社会はすでに、目まぐるしい学習とその棄却を両輪として高速で走行してしまっている。
 だから、教育にまつわる痛みを、我々は忘れるしかないのだ。
 忘育機関はそのためにこそある。

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