発掘された昔の文章その3

チェロと幻灯――宮沢賢治作品の周波数


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失われ)
――「序」『心象スケッチ 春と修羅』より

周期的に繰り返すものについて考えてみよう。季節、昼と夜、その中で行ったり来たりする生活。もう少し分解能を上げてみる。人の心拍。動物の心拍。魚の翻す尾びれの動き、炎のゆらめき。思い切ってもっと分解能を上げる。音、交流電流、光。一転、分解能をはるかにはるかに下げ、世界をひとつのつながったかたちとして捉える。ごうごうと流転する何かが見える、かもしれない。これら、非常に高いものから最も低いものまで、世界の周波数について賢治は書いた。

 「セロ弾きのゴーシュ」について。ゴーシュはチェロを弾く。チェロは胸で振動を受ける楽器だ。人の声に近い振動数でからだと楽器の両方が震える。音程のずれは連帯責任だ。「ゴーシュはあわてて糸を直しました。これはじつはゴーシュも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした」。ゴーシュは<こわれた>水車小屋に住み、午前は畑仕事、午後は活動写真館へ通う毎日。当然人間の周期で暮らしている。週に一度は休みもあるだろう。しかし、音楽会までの特訓を始めたゴーシュはそれまでの生活の周期を外れることになる。そこに動物たちが現れる。
 はじめは大きな三毛猫が来る。ゴーシュの弾く「印度の虎狩」に三毛猫は火花を散らしてはねまわる。三毛猫ははじめしばらく首を曲げて聞いていたのだから、音の大きさが苦しいわけではない。火花が出てからだが青く光るほどの摩擦、振動に目を回しているのだ。ゴーシュには平気な曲が、三毛猫にはひどく効く。人間と動物の生きる周波数が違うためだ。耳栓をしたゴーシュはまだそのことの意味に気づかない。
 次に来るのはかっこうだ。かっこうかっこうと繰り返す練習によって、ゴーシュは分解能を上げ、動物の周波数に同期しはじめる。しかしそれはまだゴーシュには受け入れがたい。違う周波数で生きはじめれば、違う存在になってしまう。かっこうの飛び去る場面では、人間と動物の断絶が痛々しい。
 狸の子が来るあたりから様子が変わってくる。「変な曲」を弾きながら、狸の子がチェロを叩く振動はゴーシュのからだに直接響く。狸の子はゴーシュよりも正確なリズム感で人間のからだと楽器の同期不全に気づく。ゴーシュの周波数は上がり、動物の知る微細な違いに分け入っていく。
 ついには「大へんちいさな」野ねずみのこどもの病気をチェロで治すことになる。小さなねずみの人間とはまるで違う周波数に、ゴーシュはチェロを媒介にして治療的に関与する。人間にとっての音楽と、ねずみにとってのマッサージ。同じ振動を別の効用のため分け合うところに、周波数を通じたひとつの一致が生じている。いまやねずみの周波数を知るゴーシュは、パンのひとつまみがねずみにとってのごちそうであることも自然に知っている。
 ゴーシュがアンコールで弾いた「印度の虎狩」は、耳栓をして弾いた数日前とは完全に別物だ。チェロの震えをゴーシュはずっと微細に感じることができる。ゴーシュの周波数に対する感度は動物化されたのだった。それは「普通の人なら死んでしまう」変化かもしれない。いくつかの夜を通してゴーシュは少し死に、音楽を通して別の存在を生きはじめたのだった。

 次に「やまなし」について。「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻灯です」と冒頭にある通り、書かれていることは一瞬の光景に近い。ただし、現代のプロジェクタと違い、これらの幻灯はちらつきゆらめく光によって映しだされている。そのゆらめきのなかに時間がある。人間にとっては一瞬の光景も、蟹の子供たちには物語だ。小さな蟹は引き伸ばされた時間、より高い周波数で生きている。だから「やまなし」は幻灯であると同時にスローモーションの映像として描かれる。
 蟹の吐く泡も、水面近くを泳ぐ魚の往復も、かわせみのダイブも、人間が見れば全体で 2 秒か 3 秒程度のことかもしれない。その時間を小さないきものたちははるかに微細に生きている。水音や光のゆらめきは、<ちらちら>するのではなく<ゆらゆら>するのである。静止しかすかに震える幻灯のなかで、蟹たちはとてつもない動きの中にいる。
 月光に照らされて青い炎を上げる水面、川底の鉱物のきらめき、やまなしの放つかおりも、やはり一瞬のことであると同時に永遠のように引き伸ばされている。光や動きやにおいをこんなにも引き伸ばして感じる、周波数の高いいきものたちのもとに訪れる昼や夜とは、一体どんな持続なのだろう。蟹たちがやまなしのお酒を「2 日ばかり」待つとき、一定の天体の時間をそれぞれ別のからだで感じるいきものたちが平然と同じ自然に生きていることの不思議を思わずにはいられない。「かぷかぷ」笑ったというクラムボンの声や、「ぼかぼか」流れるやまなしの水音は、蟹たちよりもはるかに粗い時間を生き、その代わりに宇宙の永遠すら考えることのできる人間には、どのように聞こえるのだろう。

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