発掘された昔の文章その5

故郷をいずれ焼き尽くしてしまう私たちについて
レイ・ブラッドベリ『火星年代記』 2016/11/6

 20世紀の中頃まで、火星は夢想家たちの故郷だった。赤い大地、無数のクレーター、途轍もない高さの山と見渡す限りの平地、ふたつの月。冒険や神秘的な出会いの物語が、数多くこの幻想的な惑星を舞台に描かれてきた。
 ブラッドベリの想像の世界のなかで、火星人の生活や火星の運河の広大な流れといった光景は、明らかに一種の郷愁を帯びている。地球人が描いてきた神話や幻想の系譜が、火星という舞台で未来と故郷を同時に獲得している。ある部分には未来的なものの静かな精神性があり、別の部分には太古の巨大な神話の倫理の残り香がある。ツタンカーメンの黄金のマスクの輝きは、永遠に未来のものであり続ける。一方で、火星への移住が永遠に実現されない夢物語だったとしても、やはりそこに夢想家たちは故郷を感じるのだ。

 『火星年代記』は「地球人の故郷としての火星の年代記」だ。27編のうち、火星人の側から描かれたものは「イラ」と「夏の夜」の2編しかない。際立って音楽的な描写を盛り込まれたこれら2編を通じて、火星の古代的な調和の世界の幕は下りる。歴史前夜の予言の歌に続いて音量を増していくのは、ロケットの轟音と銃声、木造小屋の釘を叩く音だ。
 「私たちの始まり」を記す年代記(chronicles)の影には、多くの場合「私たち以外のものの終わり」がある。その境界を描く第二・第三探検隊と火星人との遭遇の物語では、相互理解のための夢の力であるはずのテレパシーが、逆に互いへの無理解を際立たせる道具として使われている。故郷をめぐる軋みもそのなかで始まる。火星人が第三探検隊を陥れるためにとった手段は、故郷や懐かしい人の記憶を利用することだった。見慣れぬ土地をすぐにでも自分の故郷とし、そこにもともと何があったにせよ、親しみの持てるものに囲まれて暮らしたい。この傲慢ながら普遍的な故郷への欲求を逆手に取られて探検隊は全滅する。しかしその後、同じ種類の心情によって、火星の土地は名を変えられ植民地化されていくことになる。

 この作品において、故郷をめぐる火星人と地球人の戦いは、水疱瘡によって水面下であっさりと終わってしまう。そもそも火星人の文明は爆発的に発展し続けるものではなかったようで、彼らは数千年前の都市遺跡が点在するなかに生活圏を持っていた。火星人たちは過去と暮らす人々だったのかもしれない。その生活はスペンダーのような人間にとっては、地球以上の故郷と呼ぶにふさわしいものだっただろう。とはいえ、隊員たちとスペンダーの間の戦いは、征服者と被征服者の戦いではなかった。それはあくまで征服者同士の戦いだった。スペンダーとワイルダー隊長を除く隊員たちは火星を所有しようとし、そこに地球の生活を適用し故郷とすることを考えた。対するスペンダーは火星人の故郷への権利を守ろうとしたのかといえば、そうではない。彼にとっては、火星人は既に滅んだものだったはずだ。スペンダーは彼なりのやり方で火星を自分の故郷とするために戦ったのだ。考古学者は既に当事者の存在しない歴史に対する倫理を代表する。無人となった生活の痕跡やもう誰も使わない言語のなかに自分の故郷を発見する人々だ。考古学者は失われた暮らしを出来る限り正確に再現することで、ここではないどこかを故郷に定めることを可能にする。スペンダーは過去に対して誠実ではあるが、それは征服者の誠実さだ。

「……わたしはここまで昇ってきたら、かれら[地球人]のいわゆる文化から解放されたのみか、かれらの倫理やしきたりからも解放されたという気持ちになったのです。かれらの関係の枠から外されたという感じです。だから、わたしはあなた方を一人残らず殺し、わたし自身の生活を生きたいのです」
――「二〇三二年六月 月は今でも明るいが」より、スペンダー

こういった心情は、ファンタジーや歴史を好む多くの人にも共有されるものだろう。
 火星にアッシャー邸を再現したスタンダール氏もまた、ここではないどこかを故郷に定めた人物だった。彼は確かに書物の世界に対しては誠実だ。文化統制に対する反抗は、方法はさておき、政治的にも正しい主張のように思える。しかし、アッシャー邸もポーも本来火星とは何の関係もない。彼は自分の精神の故郷を建設するために“未開の地”である火星を選んだまでであって、火星のもともとの環境や文化を気にしていない点については、ホットドッグ屋を作ったサム・パークヒルと変わりはない。木を植え続けるベンジャミン・ドリスコルもまた、「個人的な園芸の戦い」として地球の木々を火星に大量に輸入する。
 登場人物それぞれの行為には正しい面もあり夢もある。物語のなかで賢く描かれたり愚かに描かれたりする違いはあっても、彼らは根本的には同じ地球人として振る舞っている。彼らの倫理は火星に対するものではなく、それぞれの故郷のイメージに対するものだ。故郷というものに対して無頓着に見える生き残りの火星人たちを横目に、火星を舞台にした地球人の複数の倫理と欲望の衝突のなかで、火星は不可避にその光景を変えていく。

 火星にそれぞれの故郷を探し求めてきた人々もしかし、戦争が起きれば地球に帰っていく。帰った先では、地球という一個の惑星の上でそれぞれ故郷を同じくする複数の勢力に分かれて戦い、最終的に地球を焼き尽くしてしまう。
 地球を見限って火星に逃げた家族の父親は、地球上の政治と経済、文化の書物を焼き捨てる。

「わたしは、いま、生き方を燃やしているのだ。ちょうど、いまごろ地球の上で、燃えて消えてしまおうとしている、あの生き方みたいな。……地球は失くなってしまった。惑星間航行は、今後何世紀かのあいだ、行われることはないだろう。ひょっとすると、永久にないかもしれない。だが、あの生き方は、それがまちがいだったことをみずから証明して、われとわが手で、自分の首をしめてしまったのだ。……」
――「二〇五七年十月 百万年ピクニック」より

 「二〇三六年四月 第二のアッシャー邸」のなかでは、本を焼くことは精神的な故郷の忘却、文化の劣化の象徴だった。本を焼くことは多くのものを断絶する。都市を焼き尽くすことも生き方の継承を困難にする。しかし、本や都市によって継承され変化するうちにいびつになってしまった生き方のために、すべての地球人の故郷は焼き尽くされてしまったのではないか。だから今となっては、本を燃やすことこそが正しい故郷を獲得することなのだ。断絶したものの代わりに、火星には燃やされていない都市がある。それらは空っぽかもしれないが、どこか別の場所の代替品でもイメージの産物でもない、現実の底にある最初の故郷になるはずだ。

「この星全部が、わたしたちのものなのだよ。この星全部がね」
――――「二〇五七年十月 百万年ピクニック」より

 故郷を持つということへの深く長い倫理とともに、火星年代記は再起動したのだった。

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