神と科学

 その昔、長い間にわたって人間にとって神の存在は今よりずっと信頼の高いものであった。村でいちばん頼りになるのは神に近しい教会の神父であったし、病にかかれば坊主に加持祈祷をしてもらっていたのである。
しかし今、我々が信頼を置くのは神ではなく(自然)科学である。むしろ宗教に熱心な人間を避けようとする傾向だってみられる。なぜ数千年もの長きにわたって人々の意識の側にいた神が、高々数百年で科学という新参者に取って代わられたのだろうか?
それに対する一つの解は、科学がここ最近で神が役割を果たしていた領域を明らかにしたから、ということができる。

 自然科学が未発達であり、理性的に物事を捉えられる範囲が今よりずっと狭かった時代に、人間の合理性が及ばない範囲を支配する存在、それが神であった。わからない事、現象の不思議は全部神の御業にしてしまおうという、いわば丸投げブラックボックス的存在であるともいえるだろう。
近現代に入り、現象のブラックボックスは少しずつ自然科学という、合理性を持つ強力なサーチライトに照らされ、未知である部分はほぼ無くなった。合理性が及ばぬ範囲が神の領域であるならば、当然その分神の影響力も弱くなる。もっともな説明である。

しかしながら、私はこの説とは別の説も加えて唱えたい。
神と科学が、容器だけ置き換わってその中身は変わっていない、つまり、現代でも不思議は不思議のままである、というものである。

 気象を例に挙げよう。一般人にとっては、「雨が降る」という結果のみが日常にとって重要であり、その理由が低気圧だろうと、風神雷神であろうと、あまり関係ないのではないだろうか。
では一般人にとって風神と低気圧を分けるものは何だろうか。

天気予報。これこそが神と科学を分けるものであると考える。
我々が毎日当たり前のように見る天気予報は最新の科学の産物である、ということは誰もが知っていることだ。しかし、一体世間でどれだけの人が、今日の天気予報に使われるような数理モデルの詳細を知っているだろうか?天気予報について知っていることといえば「衛星ひまわりがいろいろやってる」「上昇気流と高気圧が…」程度だろう。
いろいろな科学が関わっていることは知っているが、「いろいろ」の詳細は知らないのである。「いろいろ」の部分に厳密な合理性が含まれているので、そこが合理性を旗印に掲げる科学の核心であるのは言うまでもない。

ここで言いたいのは、人類全体としては科学という道具でブラックボックスのなかを覗くことができるようになったとしても、個々の人間にとっては神の支配するブラックボックスが科学の支配するブラックボックスに変化しただけだ、ということである。


近年、科学(技術)と社会との関わりがより緊密になるにつれ、その社会的責任が云々についても叫ばれるようになり、分厚い専門書や教科書だけでなく新聞テレビインターネットなどの身近な媒体でも様々なものの科学的説明がちらちら載せられることが多くなってきた(コロナウイルスの説明とか)。これらによって「布教」される科学はその表層、ごく一部でしかない。表層だけでは合理的な科学は成り立たない。ただ、これらの布教によって一般人は科学の完全な合理性を理解はしないが、科学は合理的なものであるということ、そして便利なものと科学との密接な結びつきを意識するようになる。そして科学の成果に満ち溢れた日常生活を暮らすうちに、経験的にも「科学は正しい」ということを学んでゆく。風邪をひいた現代人は、科学に基づいて作られた薬をもらいに行く。過程が分からないという点で同じでも坊主へ加持祈祷しにはいかない。なぜか?薬の方がよく効くからである。

人は合理的な生物であるから科学の合理性に惚れたのではなく、科学によって生み出される産物ーー天気予報などーーが神の産物ーー儀式や占いやお守りなどーーよりもずば抜けて正確で、効果があると気付き、また身近で便利なものと科学との関わりを認知するようになったから神から科学へと「乗り換えた」のではないだろうか。

 科学なき時代においては、幸も不幸も神の御業であり、少なくとも一部の人間は偶然御業と思われるようなことを目にしたか何かで神の存在を心から信じていただろう。何より、神以外に頼りにできるものなど存在しなかった。
しかし、神官が亀甲占いをして明日の天気を当てるより、天気予報が当たる確率の方がはるかに高い。
こういった科学の御業を目の当たりにした時、人間は結構な確率で予言を外す「使えない」神や聖職者より、「使える」科学及び科学者を不思議世界の新たなる支配者として受け入れるのである。


あとがき:東進模試の現代文の読解中に思いつきました。

文:前橋