(133)征服王朝と九州王朝の折衷案

133中央構造線

中央構造線 糸魚川―静岡線(伊那付近)

 「倭の五王」の倭讃が高句麗・好太王と戦戈を交えているとき、ざっくり言うと紀元4世紀末から5世紀初頭にかけての50年間、関門海峡からフォッサマグナ(糸魚川―静岡構造線)にかけてのエリアは、群雄割拠・合従連衡の緊張感に満ちていました。50年は、当時の成人平均寿命でいうと3世代分に相当します。

 明確な物的証拠がないので推測から出ることはありませんが、その50年の間に、中国・瀬戸内、畿内、東海、関東といった地域に王権が集約されていったのでしょう。出雲、吉備、大和、東海、毛野がそれに相当します。そうした王権の祭祀は国津神として体系化されています。三輪王朝が祭祀したのが大物主というのはそのためです。

 ただ16世紀戦国時代のように、各地で大規模な合戦が行われたかとなると疑問です。多くの殺傷人骨(受傷人骨)を伴出する遺跡がほとんど知られていないのです。

 歩兵部隊を構成したのは徴発された農民で、その多くが戦闘・殺戮を好まない縄文的信仰の持ち主だったからかもしれませんし、そもそも戦いに参加する兵員が少なかったのかもしれません。ちなみに住居遺跡や埋葬遺跡から推定して、5世紀中ごろの人口は250万人程度(西暦200年ごろ60万人/西暦723年ごろ451万人の中間値)と考えることができます。

 近代戦争は兵と兵の殺し合いで勝敗が決まりますが、刀槍の時代は将棋と一緒で、どちらかの大将が討ち取られたら終わりです。数を頼りに相手を圧倒するのは無血開城や降伏を促す場合に限られます。『三國史記』でも、軍事力を背景に、婚姻や謀略で相手を屈服させるのが常となっています。

 そこに倭讃が王城を移してきました。高句麗軍との戦いを通じて学んだ戦術、戦法、馬と鉄製の武器の機動力、破壊力の前に地方王権は沈黙し、倭讃は一気に河内平野に王城を定めます。

 各地の戦国大名が集約に向かっていたとき、織田信長が居城を清洲から稲葉山、安土に移し、「天下布武」を号するまで16年だったことを考えると、倭讃が20年弱で東征を達成したとするのは非現実的なことではありません。

 また信長の例に倣えば、本貫地(本籍)が変わることはなく、家康の例に倣えば本貫地に「本家」が残ります。本能寺の変のあと、織田家の跡目相続が話し合われたのは清洲城でしたし、家康は三河の松平郷で百姓を営んでいた松平氏を「本家」として、400石取りの寄合旗本に遇しています。なぜそのようなことを書くかというと、第1に527年に兵を挙げた火の君磐井、第2に太宰府のことがあるためです。

 倭武王が順帝に奉じた表の「東征毛人」は倭讃の東征譚、「西服衆夷」は加羅國を拠点に断続的に行われた栄山江流域(光州付近)への軍事活動、「渡平北海」は倭讃王統にとって直近の大事件。それを東西南北の順に並記した(南は南九州「襲」國が頑強だったので入れなかった)と考えることはできないでしょうか。三輪王朝を支えていたのは毛人=のちの蝦夷(アイヌ族?)だったのかもしれません。

 本稿では王城を南遷・東征したのは倭讃としましたが、「海を渡る」の意味を持つ「済」王が東征譚の主人公だっった可能性は残っています。『書紀』が記す王名でいうとヲアサツマワクゴノスクネ大王(允恭)ですが、もちろんそのようなことを示唆する記事は載っていません。

 SFの定番であるパラレルワールドではありませんが、『書紀』の伝承と実際の出来事は同期していません。以上のストーリーは、実は「九州王朝」説と「騎馬民族征服王朝」説の折衷案のようなものなのです。

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