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気候と国民性、という妄想

昔、マレーシアのクアラルンプール(KL)に7年間住んでいたことがある。

一応念の為説明すると、マレーシアは赤道付近にある東南アジアの一国で、いわゆる「熱帯」地域に属する。字面に共通点があるからか「マーライオンがあるところね」とたまに間違われるが、それはシンガポールであり、基本的にマレーシアとの関係性はあまり良くない隣国である。

そんなマレーシアのKLに住んでいた経験と、日本人として日本にいる日々を照らし合わせてみると、それぞれ下記のような、季節に類した国民性があるのではないか。というのが今回の話である。

熱帯=常夏の国は、一般的にその暑さのイメージから「怠けがち」だったり「時間にルーズ」だったりといった、ネガティブ寄りの印象を持たれがちであるのに異論を挟む方は少ないだろう。これをもう少し「気候」の観点を踏まえると、年中一定の気候がもたらすメリハリのなさ(少なさ)というのが、だらだらと怠けてしまう国民性と密接に関わっている気がする。

では、四季のある日本はどうなのかというと、ポジティブに言えば、季節の移り変わりが見せる自然の美しさに気づける感受性が豊か(=対象物を観察し、その変化に気がつくことが出来る)という一面もあるだろう。また、ネガティブな面としては、どんなに暑くても寒くても、自分がどうにかしなくても時間が経てば自然に解決される(=問題に対して事なかれ主義で主体性がない)というように言えるかもしれない。

無論、それが日本独自の国民性ということではなく、じゃあ他に四季のある国も全部同じなのかという話にはなるが、様々な要素の掛け合わせで出来る「国民性」という概念を形成する一つの重要なファクターとしては、それなりに納得感のある話ではないかな、というのが、この「気候と国民性」の話である。

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