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ある女性の戦争史

 私の親戚の話です。A子とします。身内ですのでA子と言わせてください。

 なぜこの話を書こうと思ったか、なぜこのタイミングかといいますと、先日彼女の法事だったのです。A子にとっての孫嫁からの又聞きの部分もあり、世にごまんと溢れている地味な話でもありますが、どこかに記録しておくべき話の一つなのかもしれないと思いました。A子にとっての続柄で話を進めたいと思います。

誕生から結婚

 記録がありません。この時代の話を聞いた親戚もいません。確かなのは、温暖な地方のけっこうな田舎の農家に生まれ(おそらく明治末期から大正初期)、小学校を卒業したかも怪しいところ。当時の女性として、特に田舎の農家の娘にとって必要だったかと言われると、微妙です。大して裕福ではありませんでしたが、近所の農家の次男と結婚。昭和五年のことでした。

 時代に翻弄される昭和初期

 この頃、嫁ぎ先の義兄一家がブラジルに移民します。跡継ぎであるはずの義兄がいなくなってしまったので、A子の夫が跡を継ぎました。山の斜面にへばりつくような家といくつかの田畑で、贅沢はできないけれど家を守る暮らしでした。子ども四人(長男・次男・長女・次女の順)と夫の両親で八人家族です。
 子どもが四人生まれた時点でお察しの方もいらっしゃると思いますが、昭和十六年太平洋戦争開戦、世の中は欧米との戦争へと突入します。
 夫は後継ぎですが、二年後の昭和十八年末、召集令状によって徴兵されます。

夫の戦争

 夫は出征後どうなったか。後からわかったことですが、徴兵・三ヶ月の訓練の後、南方へ派遣されます。しかし、輸送船が被弾し沈没。負傷して台湾の病院に収容されます。当時は日本の統治下である台湾。すぐに戦場復帰することも逆に帰還することもできず、入院は長期に及んだようです。
 昭和二十年、台湾も空襲されるようになります。入院していた病院も空襲され、ここで死亡したと記録されています。この辺り、ネット上で見られる記録を少し調べましたが、入院したと言われる台北への空襲記録(いつ、どんなの施設がどれくらい被害を受けたか)と、夫の死亡の日付が合わないのです。台北空襲初日に亡くなったことになっていますが、戦時中の記録がどれほど正確かは分かりません。そもそも街が焼けてしまうので、その辺で戦死した人の死亡日を同じにした可能性もあります。
 ここから、更に謎の話が始まります。この病院空襲の後、焼け跡から夫の寝ていたベッドの辺りの灰を集め、遺灰として日本に持ち帰ろうとしてくれた人がいるらしいのです。しかし、日本へ帰還する船が襲撃され沈没。遺灰はその人と共に海へ沈みました。
 戦死の公報は残っていません。夫の最期を知っている人が手紙を送ってくれたようなこともなかったようです。この夫の最期や「遺灰を持ち帰ろうと」云々の話は、どうやって自宅の妻A子のもとへ伝えられたのでしょうか。謎はもう一つありますが、それはまた後ほど。

戦後、寡婦となって

 昭和な言葉ですね。A子の住んでいた地域では「後家さん」と言い、戦後は溢れていました。今も、けっこういますが、女性の方が長生きだったが故かと思います。
 ともあれ、夫の戦死を知り、終戦を迎えたA子。一応夫の墓を立てます。当時、この家はまだ土葬。実はこのA子が平成二十年を過ぎて亡くなるまで、土葬の土饅頭が並んでいました。夫用の土饅頭を作ったものの、棺の中は空。代わりに、近くに椰子の木を植えます。南国に行くはずだった夫。南国っぽいこの木を目指して帰ってきて欲しいとの願いからだったそうです。
 世の戦争未亡人と同じように、本当の戦いはここからでした。まず、夫がいなくなったとはいえ、幼い子ども四人を置いていくわけにはいきません。舅姑を介護して見送り、人に手伝ってもらいながら農業で身を立て、四人の子どもを育て上げました。
 さらっと書きましたが、想像してみてください。親の介護ならまだしも、もういない夫の舅と姑です。子どもは長男がやっと小学生からのスタート。昭和です。女性が一人で家族六人を支えて…。言うのは簡単ですが、大変だったと思います。
 加えて、長男は未婚のまま三〇才で病死。次男が跡を継ぐことになります。A子の夫の父親も次男でしたので、何か因縁を感じてしまいます。この次男はその後結婚して男の子二人の父親となりますが、二人目の子(A子の孫)には「この子が跡を継ぐようなこと(上の子何かあって)にならないように」と漢数字の「二」を入れた名前をつけています。
 また、この次男に孫ができた頃、自宅が土砂崩れに遭って半壊します。幸い家族は無事でしたが、家は当時畑のあった場所に建て直しとなりました。また、長女が嫁いだ先でDVに遭い、幼い子ども(A子には孫)を残して脱出するように離婚。この長女の嫁ぎ先とは絶縁状態です。長女は再婚しますが、再婚相手との間に子どもはできませんでした。この再婚相手の方は穏やかで優しい方で、長女と最後まで連れ添ってくれました。次女は都会に嫁ぎますが、婿さんはアルコール中毒で、大変。離婚こそしませんでしたが、次女は理容師として自分が稼ぎながら、酒浸りの夫を抱えて苦労しました。
 子どもたちの苦労を陰で支えながらも、A子自身は八十歳を過ぎてもバイクに乗って畑仕事に勤しみました。次男の嫁からはあまり好かれていませんでしたが、子や孫、孫嫁たち、ひ孫たちには慕われました。
 八十六歳になった時、ハウスで梯子から落ちて大腿骨を骨折。寝たきりになった頃から、今で言う認知症の症状が出始めました。大学生になった一番上のひ孫(この人が私と同世代)に「この人は東京から来た嫁さんだ」とニコニコ笑いながら言ったそうです。そのひ孫のお母さん(A子孫嫁)は、関西圏の出身で東京ではない関東の大学で孫と出会って結婚。ひ孫自身は田舎育ちです。つまり、微妙に全部ズレてる状態でした。当時ひ孫はけっこうな衝撃だったようで、そのひ孫が小さい頃から「おばあちゃんその3」くらいの感覚でよく遊んでくれた人だったそうです。

心の支え

 衝撃でもあり、もう一つの謎であったのが、A子の亡くなった後でした。A子は長生きしまして、九十五歳を過ぎてから亡くなりました。平成も二十年を過ぎていました。病院で亡くなったA子が自宅に帰ってきて、棺に入れようとした時の話です。孫嫁たちが「大事にしていた着物を着せて送ってあげよう」と言い出しました。とても背が低い可愛いおばあちゃんだったので、彼女の着物をもらって着られる人もいません。と言うことで、彼女が一番大事にしていた桐箪笥を開けて着物を出したところ、その下から一枚の葉書が出てきました。セピア色を通り越した感のあるそれは、ある人からの絵葉書でした。裏面は、戦闘機の写真。表には、住所も宛名もなく、ただ文章だけが並んでいました。内容は「飛行機に想ひを乗せて、A子のもとへ〇〇(地名ですが、市町村名でもなく小字、住所には使われない地域名)へ飛んでいきたい。空から知らせを落とすよ」という感じです。その後夫の名前も書いてありました。夫からの、出征後の手紙です。私はひ孫が撮った写真を見ましたが、かなり急いで書いたような印象を受けました。
 衝撃が走りました。A子の息子も娘も孫たちも、誰もその葉書の存在を知りませんでした。まるで隠すように着物の下に挟んであったので、字や絵がはっきり見え、四角い形を保っていたのです。また、この葉書にも謎があります。戦時中「妻の元へ帰りたい」という内容の葉書が検閲を通って妻の元へ届いたこと。住所も宛名もないそれが、差出人の名前だけで妻の元へ届いたこと。海軍の制服姿の写真が残っている夫が、まるで飛行機乗りになったかのような葉書だったこと。戦地に着くまでに負傷した夫が、さも元気で戦場に出たかのような葉書を送ったこと。そして、A子は子どもたちの誰にもそれを見せなかったこと。子どもに見せなかったことに関しては、あくまでも私の想像ですが、血縁である子どもに見せてしまうと、たった一つ手元に残った自分宛の夫の葉書を、子どもに与えなければならなくなってしまう。それは寂しすぎる……と思ったのかもしれません。
 戦後六十年。A子は遺髪も遺灰もない夫のこの葉書を、唯一の形見として、厳しい戦後の時代を生き抜いたということが想像されます。私もA子には会ったことがありますが、ニコニコした可愛いおばあちゃんでした。ですが、彼女が一人で支えてきたのは、夫が遺した家と家族。大変だったと思います。ちょうど、今の朝ドラの主人公の世代でしょうか。再婚もせず婚家に残り、葉書一枚を心の支えに女性が頼る人もなくたった一人で。田舎の農家だったからできたことかもしれません。それでも、これが彼女の戦争だったのだと、この葉書を見て思います。今頃、亡き夫や子どもたちと一緒にあの世で幸せに過ごしてくれていたら、と思います。

 最初に書きました通り、世の中にごまんとある話です。テレビなどで放送される戦地や沖縄戦や大空襲や原爆の話に比べたら、穏やかなもんです。しかし、実際に今この記事を書いている私の、親戚の話です。決して遠い歴史の話ではないのです。この話を元に今世界の戦争で苦しんでいる人に思いを寄せるのはちょっと違うのかもしれませんが、現実今ここにいる私につながる人が、こんな思いをして生きてきたこと、そんな人がその辺につい何年か前までいくらでもいた、これも事実です。

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

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