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永遠少女の国を探して

 「少女」とは、なんと曖昧で多様で、魅力を秘めた存在でしょう。
 それは単純に年齢が幼いことを指すだけに留まらず、本人のありようや生き方を示す場合があります。そして、私にとって少女と定義するための条件として、清純無垢であることはあまり関係ありません。重要なのはその先であり、精神面であると考えています。それさえ備えていれば、性別すら大した問題ではありません。
 今回はその精神面が表す「少女性」とは何かについて、私なりの考えをまとめたいと思います。

一、少女と女の子と女性


 少女という言葉を冠し、少女について深く掘り下げて描いた作品として、TVアニメ『少女革命ウテナ』があります。Twitterをフォローして下さっている方には「またそれか」と思われそうですが、どうしても避けては通れない名台詞があるので、懲りずに紹介させて頂きます。

34話『薔薇の刻印』より
「でも君は女の子だ、やがては女性になってしまう」
「なる、私は王子様になるわ」

 たしかに永遠に“幼い女の子”でいることは不可能ですが、はたしてそれは“成熟した女性”の前段階なのでしょうか。そして成長したウテナの口癖は「ぼくは王子様になる」ですが、別に男の子を目指しているわけではありません。男装は「王子様」に近付くための手段のひとつに過ぎず、本人の性自認は「れっきとした女子」です。
 女の子と女性。私はこの両者の間ではなく、中立の立場が「少女」ではないかと思います。

二、成長と成熟


 まず成熟とは次のような意味を持ちます。

人の心や身体などが十分に成長すること。

https://www.weblio.jp/content/成熟

 そして成長とは次のような意味です。

人や動植物が育って大きくなること。おとなになること。

https://www.weblio.jp/content/成長

 一見似ているようで大きく異なる、このふたつの決定的な違いは、「心」です。成長は時と共に見た目や肉体が育つことであり、成熟は精神面も含んだ変化を意味します。
 成長することは自然現象ですが、逆にいえば成熟せずに、成長することはありえるのではないでしょうか。特に精神面においては、これはありえると思います。単に子供っぽいというのでしたら、幼いという形容の方がしっくりきます。そうではなく、年月を経ても心の「ある部分」だけは成長しきらず、あえて成熟には至らない存在。そこに「少女性」が宿るのではないでしょうか。

三、成熟を拒む心


 仮に、幼い女の子に与えられた選択肢が、成熟した女性になるかならないかの二択だとしたら、女性になることを拒むのが少女の心なのだと思います。(あるいは、そんな残酷な選択しかさせてもらえない世界なんて、と成長することすら拒むのかもしれません。)
 少女小説の中には、度々大人になることに嫌悪感や拒否感を示す少女がいます。

かつての痛みを忘れることが大人になるということなら、そんなものになりたくない。
『森をひらいて』(雛倉さりえ著)

「私、自分で思っていた以上に、子供だった。少女でいられなくなるのが怖いんだ」
『喉元に、ひらひら揺れるリボン結わえて』(七木香枝著)

 現実においても、上手く世の中を生きていくために、精神的に「大人になる」ことを求められる場合がありますが、楽になると分かっていても、それが出来ない、したくない、と抗う心を大切に抱き続ける。そんなある種の融通の効かなさや、譲れないものがあるという強い意識。それらを自らの生命より重んじるような、大人の目には愚かしく映るであろう生き方しか出来ないもの。世界に合わせて自分を変化させることに敏感で、これだけは守りたいという聖域を抱えた生き物。
 そういった、たとえ行き辛くとも、周りに抵抗してでも、今の状態に留まりたいと願う心を持つ者に与えられた呼び名が、「少女」なのではないかと思います。

四、羨望より軽蔑


 ときに恋愛方面に関して大人びた同級生などに対して、どういう感情を抱くかという点も、少女性を語る上で重要だと思います。
 例えば、幼い頃からなにかと一緒に過ごしてきた友達から、ある日「彼氏が出来た」と嬉しそうに聞かされた場合、その子を羨ましいと思うか、はたまた軽蔑して、裏切られたとさえ感じるか、ここでも明白な相違が発生すると思われます。
 前者は、やがて自分も恋愛を経験するだろうということを自然に受け入れているため、成熟することも拒んでいないでしょう。むしろ「早く大人になりたい」と思っている場合もあるかもしれません。
 そして後者が感じた軽蔑や裏切られたなどの感情は、決して「先を越された」ではなく、真逆で、自分と同じだと信じていた目の前の友達が、知らぬ間に“女性”へと変わろうとしている気配を察知しての、軽蔑と嫌悪感ではないかと思います。
 自分はその友達の性格も、好きなものも嫌いなものも、他にも色々なことを知っているのに、それらをろくに知らないであろう他者のために、なにか別のイキモノに変わってしまうの?
 そんなふうに疎外感を通り越して一気に軽蔑にまでいたる心は、頑なで偏屈で極端ですが、殊に物語の中の存在において、それらの面を持つ人物は「少女性」を宿した者として、印象的に映るのではないでしょうか。

五、両極性


 安易に恋愛に踏み出すことに拒否感を抱くものが少女であるとしたら、やはり「清純無垢」でなければならないかといえば、一概にそうではないと思います。異性との恋愛にむしろ積極的で、奔放でさえありながら、不思議なほど「少女」の魅力を放つ存在も、物語の中では鮮やかに描かれます。(先ほどから物語の中としているのは、その方が人物の心理が外から見て理解しやすいからです)
 物語の登場人物において、清純さとは真逆の描かれ方をしながら、それでも少女性を感じさせるものとして、私がまず思い浮かぶのは、『少女革命ウテナ』に登場する薫梢(かおる こずえ)と『聖少女』に登場する未紀です。
 薫梢は、双子の兄である薫幹(かおる みき)に対する複雑で鬱屈した好意から、彼の嫌がりそうな男子生徒とあえて交際してみせる人物です。劇場版では、なにか自分の知らない行動を起こそうとしている幹に対して不満を覚え、「ふたりで過ごしたあの庭にはもう戻れない」と言われた際には「裏切り者」と発言し、眉を整えていた剃刀を幹の喉元に近付けるなど、強く激しい執着心のようなものをあらわにしています。そしてTVシリーズ内でも、彼女は「周りが汚れていたら自分も汚れるしかないじゃない」と言うシーンがあります。梢のこういった性質から感じたのは、自らを変えさせまいと必死に抗う、武器用な「少女性」でした。
 『聖少女』の未紀は、虚構の力で現実を圧倒し、“パパ”への愛を聖なるものへと昇華しようとしました。美徳そのものといったMを内心で嘲笑い、「この美徳ちゃんをペットにしたい」とまで考える面を持ちながら、「他人を通して自らを愛していた」ことに強い羞恥を感じてもいます。その思い込みが強く、捩れた自我を大切にするあまり、自壊に向かうしか出来なかった極端さなどは、彼女が成熟していない“少女”であると感じさせる描写に思えてなりません。
 上にあげた二人の“少女”に共通するのは、世界に対抗する手段が拙く、自己を守るためなら突飛な行動にも出てしまう危うさを持つ点です。また、恋愛を自分を守るための手段として用いていることも、共通した歪さです。
 清純でないからこそ、かえって際立つ「少女性」も確かにあるのだと思います。

六、まとめ


 結局のところ、少女は少女以外の何にもなりたくないと願う生き物であると思います。
 己の感性と美意識だけを信じ、他者にどう思われようと、揺るぎない矜持を後生大事に抱えた存在。世界や社会など自分を取り巻く環境がどう変わろうと、自分の核を変革させることは、何を犠牲にしてでも拒む頑なな心。
 そういった、生き辛く繊細な要素や精神を「少女性」と呼ぶのかもしれません。そして、私自身そんな少女たちに焦がれてならず、ネバーランドならぬ“永遠に少女でいられる国”があるとするなら、迷いなくそこに永住したいと願ってしまいます。
 最後に、年齢や性別も関係なしに、否応なく「少女性」を感じさせてくれる、『アドゥレセンス黙示録』のリーフレットに書かれた、幾原邦彦監督のお言葉をご紹介し終わりとさせて頂きます。

自分は彼に所有されているという屈辱的な事実…。
彼のことを思うと、僕の心は得体のしれない化学反応を起こす。
八つ裂きにしてしまいたい、ボロきれのような存在にしていまいたい…。
しかし、それは報復したい、殺してしまいたいという感情ではない。今もって僕の心には、醗酵して名状しがたい複雑怪奇な衝動がのたうつ。
が、彼に出会えてよかった。
彼は、僕の故郷がどこであるかを教えてくれたのだ…。
『彼と故郷』