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Rainbow㉒

選考合宿④

 体育館を出たエリーシャは、タオルで鼻を押さえて自分の部屋へ急いだ。三年ぶりに人前で踊って、爽快感を感じたものの、エリーシャの全身は悲鳴を上げていた。「あと何回、先ほどのように踊れるのだろう?」と彼女は思った。
 部屋に着くと、鼻を押さえていたタオルをテーブルに置いた。タオルの一部には鮮血が付着している。病気の症状で激しい運動の後などは、鼻血が出やすくなってしまう。エリーシャは鞄から処方されている薬を手探りで探し、それを水で喉に流し込んだ。しばらくすれば、睡魔が襲ってくるだろう。視界が少しぼやけていたが、この症状は、今はまだ一時的なものだと彼女は理解していた。畳の上で横になり、エリーシャは目を閉じた。
 千夏と咲人が踊っている光景が、鮮明に目に焼きついている。閉じた瞼の隙間から涙が一筋零れ落ちた。エリーシャは幸福感に包まれていた。そして、自身が夢描いている未来を思った。

 ――誰もが悲しみを抱えながらも翼を広げ、大空を優雅に飛び回る夢を見る。しかし、その大半が地上で空をみつめたまま涙を流している。悲しみを抱きしめながら。
 エリーシャは、幾人もの「悲しみ」を見てきた。その中でも一番の悲しみを挙げるとしたら、千夏と南乃花の悲劇だろう。
 南乃花がエリーシャの前に現れたのは、四年前のことだった。カリフォルニアのショーとBARが一体となったオーソドックスな店で、エリーシャは歌い踊って観客たちを魅了していた。
 南乃花は、観客としてその中にいた。ショーを終え、スタッフを通して南乃花は、エリーシャに連絡先を伝えてきた。後日、エリーシャは南乃花に連絡を取り昼間のカフェで話をした。
 南乃花は、長野県で小さなバレエ教室の先生として細々とバレエを続けていると言った。彼女は、多くは語らなかった。いや、そうではなく、語る勇気が持てなかったんだと、エリーシャは感じた。ただ、彼女も千夏と同様に大空を夢見る少女のまま、地上で悲しみに暮れていることに、エリーシャは涙を流した。
 南乃花は、十四歳になるという息子をエリーシャに紹介した。それが、咲人だ。「咲人は、千夏さんみたいに精密でいて繊細に踊るんです」と南乃花は、顔をほこらばせながら話していた。エリーシャは、理解した。南乃花の心の中に微かに残る灯が何か、――を。
 遠ざかる意識の中で、エリーシャは少女のままの千夏と南乃花が手を取り合い笑う姿を思い浮かべていた。(つづく)

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