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Rainbow⑳

 選考合宿➁

 千夏と咲人、そしてエリーシャは、舞台前で談笑していた。
「さすがは、元神童ね! 物の見事に、合わせて来たわね。恐れ入ったわ」エリーシャは、肩で息をする千夏に言った。
「ちょっと、……息が……ハアハア。四十で、『セレナーデ』を踊る……なんて。」
「すごいですよ! 千夏さん。二十年のブランクを一週間で取り戻せるなんて!」咲人が興奮しながら、自分の額についた汗をタオルで拭った。
「基礎がしっかりしていれば、無駄なく動けて体力を削ることもない。そして、何より美しい。見事だったわ、お二人さん!」
 エリーシャは、二人に労いの声を掛け、先ほどまで受検者のいた体育館フロアを見渡した。割れんばかりの拍手は、エリーシャにとっても三年間ぶりの出来事で、血が滾るほどの興奮を呼び覚ました。これから始まる練習の準備で、千夏や咲人がレッスンバーの設置をしている。エリーシャは彼らを眺めながら、一週間前の出来事を思い返していた。

 選考合宿一週間前のことだった。
 千夏と史に迎えられ、エリーシャは石垣島に到着した。千夏と史が営む食堂は、空港から近くの場所にあった。三人はそこで今後のことについて、作戦を練ることにした。エリーシャの泊まる予定のホテルでもいいのではないか。と、史が提案したがエリーシャはもう一人助っ人がいて、待ち合わせに千夏たちの食堂を指定していると言っていた。「彼もここに来たがっている」と、付け足して説明した。
 エリーシャは、まず真里のことについて二人にいくつか質問した。例えば真里の得意なこととか、突然に生気を無くした経緯を分かる範囲でいいからと。エリーシャは、真里が再び生気を取り戻す糸口を、僅かな情報でも求めた。彼女には、真里の症状に思い当たる節があったのだ。「思春期心身症」それは、思春期に心身相関のバランスが崩れて引き起こされる症状だ。突然に無気力感や対人関係で過度のストレスを感じてしまう。真里は普段から少食だと千夏から聞いている。栄養士の資格を持っている千夏のことだから、家庭ではバランスの摂れた食事を少量でも与えていると思うが、それ以外は分からない。また、思春期というのは、ただでさえ心身相関が崩れやすい「ガラス張りの心」なのだ。少しの傾きで、いくらでも心身症を引き起こしやすい。
 エリーシャは、千夏と史に「思春期心身症」のことを伝えたが、もう一つ大切なことを伝えた。
「病気やその症状の名前が分かっただけで、その子のことを理解したつもりにならないで! それが一番危険なの。大切なことは、その子が今、一番苦しんでいるってこと。自分で自分を理解できない苦しさを抱えて生きてるってことを周りが理解してあげることよ」
 千夏と史は、目を合わせて二人で頷いた。エリーシャは、水を一口飲みコップをテーブルに置くと、「そろそろ来るころかしら?」と言った。耳を澄ませるエリーシャに倣い、二人も同じようにすると、遠くからバイクのマフラー音が近づいてきた。そして、店の扉が開き現れたのは一人に男の人だった。
「遅くなりました! すみません」入ってきた男は、まだ夏の盛りだというのに、焦茶色の革ジャンを着て細身だが筋肉質な体が服の上からでもはっきりと分かる体型をしていた。史は思わず自分の腹を手を捻っていた。
「紹介するわ。彼は松本咲人、いま世界のコンテンポラリーダンサーの中で彼の右に出る者はいない。今回の特任コーチとして私が呼んだの」
「どうも、松本咲人と申します。……あ、歳ですか?……二十です。え?……彼女ですか?……いえ、自分はダンス一筋でやらせてともらってるんで、いまは彼女とかそういうのは、……時間もないですし。……実家は長野にあります。親は……公務員とダンスの先生。……です」
 千夏と史が立て続けに咲人に質問をしたので、まごつきながらも咲人は出来るだけ丁寧に答えた。
「わざわざ長野から、石垣島まで来てくださったの? ありがとうございます」千夏が咲人の座る席に冷たい水を出しながら言った。
「いえ。……」と照れた仕草をする咲人を見て、エリーシャがいたずらな笑みを浮かべ言った。
「ちょうど良かったのよ。彼、三か月も前からこの島に居たから。暇していたのよ、探したいものは見つかったっていうのに。……」
「探してたものって? あ、これ当店自慢の特製プリン。今日はサービスしとくから」史が、店の冷蔵庫から瓶に入った特製プリンを取り出し、咲人の前に置いた。
「……バイク、バイクです! 年代物のSR500が見つかったので手に入れたんですよ。いい買い物が出来ました! あははは」咲人は、そう言ってコップの水を一気に飲み干した。
 千夏が再び水を注ぎ足して、「バイク、お好きなの?」と聞いた。
「はい! 大好きです」咲人は、千夏と目が合い顔を赤らめ、下を向いた。目の前にプリンとスプーンが置かれているのを見て、それらを手に取り、一気にプリンを口に掻き込んだ。
「あ、あ、あ! ゆっくり味わって食べな。自慢の特製プリンが。……」史の言葉も時すでに遅し。咲人は、空の瓶をテーブルに置いた。
 三人のやり取りを、エリーシャは微笑みながら見ていた。楽しい一か月になりそうだと、心踊る気持ちを懐かしんでいた。
「そろそろ、本題に入っていいかしら?」エリーシャが三人のやり取りを割って入った。それから、ドラァグクイーンショーまでの流れの概要とそれぞれの役割をざっと説明した。
 咲人には、以前にロサンゼルスで一緒にした仕事と同じように、全てのプログラムに関わりながら演者たちのサポートをするよう指示した。
 史には、エリーシャのマネージャーが二日後に石垣島へ到着するから、合流してショーの会場やスタッフの食事などの段取りをするよう伝えた。
 最後にエリーシャは、千夏をまっすぐに見つめて伝えた。
「あなたは、特任コーチとして受検者たちにバレエの基礎を全て叩き込んでもらうわ」
「え、特任コーチ?……バレエを教えるの? 私が?」千夏は、驚きのあまり円柱型の水差しを手から滑り落とした。それを隣にいた咲人が地面すれすれでキャッチした。史は、冷や冷やしながら千夏を見ていた。
「そう! あなたが教えるの。そのために、あなたに踊ってもらうわ。覚悟は出来ていると、あの時電話で私に伝えたわよね」千夏は、琴美とカフェで話したときに、電話でエリーシャにそう伝えたことを思い返していた。
「ええ、何でもする覚悟は出来ていたけど。……まさか、二十年近く遠ざけてきたバレエを踊るなんて夢にも思わなかった。私に出来るか、不安で仕方ない」千夏は、咲人から水差しを受け取り、史とエリーシャが座るテーブルへと移動して水差しを置いた。史は、喉の渇きを感じて、水差しを手に取り自分のコップに水を注いだ。すると、千夏が史のコップを奪い取り一気に飲み干した。
「でも、何を踊ったらいいの?」千夏は、先ほど飲み干したコップに水を注いで、テーブルに置いた。史は、喉が渇いていた。水の入ったコップに手を差し伸べたその時、エリーシャがそのコップを取り一気に飲み干し、言った。
「舞台でのテクニックが全て入った曲は、何かしら? 千夏が得意とするものよ」コップを片手にエリーシャは、史に目で水を注ぐよう指示した。エリーシャの話の熱量が上がっていると千夏は、感じていた。
「私が得意なもの。……いやいや、やっぱり踊れない」千夏は、中学生のときに踊ったバランシンの「セレナーデ」を思い出した。しかし、それは二十年のブランクがある私には到底無理! と、千夏はそれを掻き消した。
コップに入った水を一口飲み、エリーシャが千夏に聞いた。「いい、千夏。誰かを救いたいのなら、まずは自分が初めに命賭けなきゃ、ただの偽善者で終わるのよ。あなたの本気を示すための曲は、何?」
「セレナーデ」千夏の言葉に、エリーシャと咲人は目を大きくして二人同時に「それだ!」と言った。
「ジョージ・バランシンの『セレナーデ』。筋書きのないストーリーでいて、クラシックバレエの基礎が余すところなく注ぎ込まれている曲。素晴らしいわ! この曲で行きましょう! 一週間で仕上げてね」エリーシャは、水を飲み干し、コップをテーブルに置いた。それを史が手に取り、喉の渇きを潤そうと水を注ぎ飲もうとした瞬間だった。
「え、あの曲を一週間で?」千夏は史の座る前の座席に勢いよく座り込んだ。その拍子に史は持っていたコップの水を自分の体にこぼした。
「もう、何してるのよ」千夏が、近くにあったタオルをびしょ濡れの史に渡した。エリーシャは話しを続けた。
「千夏、踊れるわよね? いや、踊らなければ真里も、あなたも前に進めない。咲人、千夏を全力でサポートするのよ!」三人は、目を合わせ結束を強めた。
「こうしちゃいられない! これから練習をしましょう。咲人さん手伝ってもらえるかしら?」千夏は、咲人を見た。
「喜んで! では準備もあると思うので15時に迎えに来てもいいですか?」咲人はそう言って笑顔を千夏に向けた。「ありがとう!」と千夏は微笑み、水差しとコップをテーブルから片付けた。そして、自宅側のドアを開いて支度をしに奥へと消えた。
「さてと、私たちは、もう疲れたからホテルで休むわ。咲人、風に当たりたい気分なの。バイクでホテルまで送ってくれる?」とエリーシャは立ち上がったが、少しクラっとよろけたところを咲人が支えた。「大丈夫ですか? 無理しないでくださいよ」と咲人はエリーシャの手を引いて玄関口まで行った。エリーシャは、玄関前で史の方に振り向き、「あなたは、荷物をホテルまで届けて」と言って外へ出た。
 夏の蒸し暑い店内で、濡れたシャツを着て一人取り残された史は、滴る汗を拭うことも忘れ、自分の唾をごくりと飲み込んだ。(つづく)

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