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カムカムエヴリバディ×NVC 寓話”善女のパン”はなんの意味?

カムカム終わってなぜか予想していたようなロスにはならず、ドラマを楽しんだ幸せだけを噛み締めておりましたが、はやくも、カムカムの総集編が放送ですって! 

しかもちょっと編集を工夫していて楽しめるってほんとですか? もう、ちむどんどんするやっさー!! (……あれ?……)

劇中劇”善女のパン”を覚えていますか?

さて、みなさん。

風間俊介さん演じた弁護士の片桐さん。彼はいったいどうしていたのか、その後が描かれなかった、ネタが回収されなかったじゃないかなどと話題になりましたね。

そのネタ回収ではありませんが、風間さんといえば、劇中劇として凝ったつくりで挿入された”善女のパン”を覚えていますか? 

読書好きのるいが竹村クリーニングのカウンターで空き時間に読んでいたオー・ヘンリー短編集の中の1編です。実は原題は”Witches’  Loaves”=魔女のパンなのですが、カムカムの中ではなぜか”善女のパン”と題されていました。

原作の翻訳を青空文庫で読むことができます。

『魔女のパン』オー・ヘンリー作のあらすじは……
ミス・マーサは、パン屋を営む40歳の独身女性。最近お店にやってくるお客の中に気になる人がいる。その人はいつも固い半額になった古いパンを買う。彼の指に汚れがついているところから、彼を貧乏な画家であると目星をつけたミス・マーサ、ある日彼が店にかかっている絵について一家言あるような発言をしたことからも、アーティストだと確信する。ある日、ミス・マーサはとっさに思いついて彼の注文した古いパンにバターをたっぷりはさむサービスする。そして、このちょっとした思いつき、いたずらに彼がどう反応するか楽しみに思い巡らしていたのだが……。

”誰かのために” ”良かれと思って”の落とし穴

るい役の深津絵里さんがマーサ役、そしてわかりにくかったかもしれませんが、客の男役を風間俊介さんが演じていました。

このお話、いったいなぜ挿入されていたのでしょう? カムカムの本編のどこと結びついてくるのでしょうか?

ドラマの中に明示的な種明かしはなかったかと思いますが、私なりに思いつくことを挙げてみたいと思います。

ひとつは、先の記事「カムカム×NVC〜『NVCの鉄則:言葉を聞いてはいけない』の真実」の中でちょっと触れましたが、”誰かのために”という思い込みが落とし穴になることがある、ということ。

私が思うに、安子は、”るいのために” ”よかれと思って” 身を引いてはいけなかった……! のです。
(もちろん、この事件があるからこそ、私たちは極上の3世代の物語を楽しめたわけですが。)

私たちはどうしたわけか、”自分のために”ではなく、”誰かのために”行うことであれば、それは思いやりの発露なんだから”いいこと”であると思い込もうとしたり、それが正しい、あるいはしょうがない、これしか方法はないんだと納得しようとしたりします。

安子はまさにその状態だったでしょう。(参照「安子のニーズを推測する座談会その1」

しかし!
そこに”よかれと思って”という名前の落とし穴があるのです。
どんな? 

暴力につながる落とし穴です。
相手への暴力だけではありません。
自分に対する暴力にもつながる落とし穴です。

”あの人はこう”等の決めつけはコミュニケーションからの逃亡

私たちは、相手のこと、あるいは物事を「こうかな?」と好奇心をもって想像することができます。しかしながらこのとき、注意深くありたいのです。
それが本当に好奇心からの自由な想像の一部なのか、それとも思い込み、レッテル貼り、自分が納得するための勝手な理由付けなのかどうか。

思い込み、レッテル貼りはそれ自体が暴力ではありませんが、暴力を容易にします。思い込み、レッテルを通して相手を見ることは、常に変化を続ける人間である相手の、人間性を受け取る努力を放棄することです。

暴力に向かわないために、私たちにできることは、自分が想像したとおりなのかどうかを実直に確かめること。自分の想像が違っている可能性にも開かれた柔軟な心をもつこと。それがコミュニケーションです。

NVC(非暴力コミュニケーション)を実践するのであれば、一方的に、一面的にものごとを捉えるのではなく、コミュニケーションを、直接の相互のやりとりを諦めないこと、し続けることを大切にしたい。

他者に確認しながら、物事を多面的にとらえ、立体的に浮かび上がらせる。これが、コミュニケーションを通して私たちができることです。もちろん、このためには、ある程度の心の余裕があることは必須です。

やりとりの過程で、「相手がこのように言ったからこうに決まっている」と”言葉のせい”、”相手のせい”にしようとしていたら、自分が今、かなり余裕のない状態に陥っているサインです。(ちなみに、その心の余裕をつくる方法を、NVCでは「自己共感」として伝えています。)

ぐるりと話を戻すと、安子のあのときの状態は……?
あまりにも自分に余裕がなかったので、るいの”I hate you”という言葉を、字義どおりに聞いてしまった。そこから”るいのためには自分が身を引くしかない”と思い込んだ。厳しい言い方で言えば、コミュニケーションから逃げた、のです。もちろん、安子自身もそれはわかっていて、長らく自責の念に苛まれていました。

では、安子の他にも”誰かのために”、”よかれと思って”コミュニケーションを拒否して、独善的に行動した(しようとした)人はいなかったでしょうか?

るいがそうだと思います。

岡山を出たのは「自分は捨てられた子。ここに居ない方が雉眞家も助かるだろう」と決めつけたのかもしれない。
額の傷を見た片桐さんの表情を見て「この人に嫌われた」と思い込んだのかもしれない。
「額に傷がある私は人に好かれる資格なんかない」と思い込んでいてジョーのプロポーズも拒もうとした。

あるいは私たち視聴者も、かもしれません。
「ジョーは夫、父として”家族のために”働くべき!」という思い込みでイライラしながら見ていた人もいたかも?
(まあ、この場合はコミュニケーションから逃げたとは言えませんが、他の可能性に開くことは拒否していたかもしれません。)

もちろん、誰も”悪く”はありません。だから制作者は劇中劇のタイトルを”魔女のパン”ではなく、”善女のパン”に変えたのかな?

一時的に決めつけをし、無理にでも納得させて落ち着くことは、心を守るために役立ちます。しかし、あくまでも「一時的に」です。このとき、自分は自分を落ち着けるための手段として「決めつけ」をやったのだ、と理解しておきましょう。そして、いずれコミュニケーションの場に戻る力、いわばレジリエンスが自分にあることを、あきらめないでいたいものです。

”自分のニーズために”行動することが、結局は相手のニーズをも大切にすることになる

考え続けたいのは「”誰かのために”を、自分のために行動しない言い訳にしているとき」、それは、本当に”誰かのため”になるのか、ということ。

私たちが「善女のパン」のミス・マーサだとしたら、どんなことが言えたでしょう? 自分のために、自分のニーズから行動するとしたら?

彼とほんのちょっと親しくなりたいという思い(=ニーズ)にミス・マーサが素直に気づいていたら、「彼が本当に画家なのか」「いつも古い固いパンを買うのはなぜなのか」をステキな方法で確かめることができたかもしれません。

彼が大切にしていることを、決めつけず素直に推測したり、彼の必要を具体的なリクエスト(NVCリクエスト)で聞いてみることもできました。

これこそがコミュニケーション。
私たちは、コミュニケーションのとば口を、想像力と創造力をもって工夫することができます。

その手法の一つとして、マーシャル・B・ローゼンバーグは、観察⇒感情⇒ニーズ⇒リクエスト、すなわちNVCを実践することを勧めています。

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