始まりと終わり、有ると無いを平等に見る

アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。

「バガヴァット・ギーター」

始まったもの、生じたものは「有る」。
終わったもの、消滅したものは「無い」。

人は有るものを見る。
無いものは見られない。

しかし、心が統一されていると、
無いことへの気づきはある。

「有る」は対象として有る。
「無い」は対象が無い。

それでも、主体はどちらのときもある。
しかし、主体は対象を見るのであって、目が目そのものを見られないように、主体はそれ自体を見ることができない。

平等に見るためには、まず対象から離れなければならない。
執着によって、「有る」ものに囚われる。
対象への無執着によって、「無い」ことに気づく。

そして、主体へ向かう。
さらに、その主体への執着(自己同一化)から離れなければならない。
自己への無執着によって、主体と対象(客体)両方の無執着によって、主体と客体の差がなくなる。

「有る」とき対象を見ていた。
「無い」とき主体へ気づく。
さらに「有る」ときにも主体への気づきが生まれる。
そのため、「有ると無い」を平等に、同じものとして見るときの共通の基盤は気づき(主体)となる。

平等に見るとは、主体と客体の合一(同一)を意味する。
合一(一体化)によって、それそのものとなって初めて主体(自己)をあるがままに見る。

しかし、その自己は有ると思い込んでいるもの(想念)に過ぎない。思い込みは知られたときには消えてしまう。
それゆえに、そのものをあるがままに見ることで、自己の消滅を知る。

そのとき、ただそれだけがある。

身において生起の法を観つづけて住みます。
あるいは、 身において滅尽の法を観つづけて住みます。
あるいは、 身において生起と滅尽の法を観つづけて住みます。

そして、かれに〈身がある〉との念が現前します。
それは他でもない、智のため念のためになります。
かれは、依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがありません。

原始仏典「大念処経」

身において、あるがままに見る瞑想のプロセスをまとめた。



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