木を見て森を見ず「世界は苦しみである」

仏教の解説に、「世界は苦しみである」というものがある。
しかし、もしこれだけでは木を見て、森を見ずというものだ。なぜなら、それは「四つの聖なる真理」の内の一つにすぎないのだから。

それら四つをまとめると、このように言える。
「世間の人々は、常々不満を抱え、幸福を追い求めている。そして、あるときは幸福を感じるだろう。
しかし、やってきたものは必ず去っていく(無常)。
不満を抱えることも、幸福を追い求めることも、儚い幸福を感じていたとしても、それらすべては苦しみ(不満足)である。
そして、そのように苦しみ(の原因)をあるがままに知る人は、それら苦しみの消滅も見る。
このようにして、世間を離れた人は、絶対の安楽(涅槃)を得るのである。
その安楽のために役に立つものは八正道である。」

このように、あなたが抱えているゴミ(苦しみの原因)を捨て去りなさいと教えている。

人が知るべきは、それを捨て去るべきかどうか、自分の幸福に役に立つかどうかであって、
そのゴミがどこから来て、何でできていて、誰のものかではない。
それを詳細に調べ、これが真理であると見えたとしても、それがなんの役に立つのだろうか。
また、ゴミを壊そうとしても、また新たなゴミができるだけだ。そのため、否定することも役に立たない。

世界(社会)は人を無条件には幸せにしない。そこでの幸福は、条件付き(取り引き)なのだ。
そのため、世界を肯定も否定もすることなく、ただ放っておきなさい(捨て去りなさい)。

そして、自己を知りなさい。なぜなら、本当に捨て去るべきは自我(自己の見解)だからである。

これが、仏教の教えである、と言える。

これに関連した、タイの阿羅漢になった尼僧「メーチ・ケーウの物語」がとても興味深いので、共有する。
菩提樹文庫より(無料pdf)

また、以下に仏教でよく知られている「毒矢の例え」を引用する。

マールンクヤプトラという弟子が釈尊に対して、「世界は未来永劫に存在するのでしょうか」「世界には果てがあるのでしょうか」「如来は死後も存在するのでしょうか」などの疑問をなげかけました。
そして、これらの問いに答えてくれないならば、自分は還俗しますといいました。

これに対して、釈尊は次のようにお答えになります。
「あなたの疑問に対する答えを求めるのであれば、あなたはその答えを得る前に命が尽きてしまうでしょう。
たとえば、ある人が毒矢で射られたので、みんなが心配して急いで医者を呼んできて、医者がまず矢を抜こうとしたら、その男が叫んだ。『この矢はどういう人が射たのか、どんな氏名の人か、背の高い人か低い人か、町の人か村の人か、これらのことがわかるまではこの矢を抜いてはならない。私はまずそれを知りたい』というのならば、その男の命はなくなってしまうでしょう。

あなたの問いはそれと同じなのです。もし世界は永遠に存在するとかしないとか答えることができる人がいたとしても、その人にも生老病死の苦しみがあり、さまざまな憂いや悩みがあるのです。あなたの問いは、人間の本当の苦しみや悩みとは関係のないことです。

わたしは説くべきことのみを説きます」

『中阿含経』「箭喩経」

さらに、マタイの福音書でイエスはこのようにも言う。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。


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