ある日身体の使い方を忘れた話「クンダリーニ症候群」

ミャンマーの僧院に滞在しているとき、チャンティング(詠唱)を何気なく聞いていた。そのとき、頭頂を突き抜けるような閃光を感じた。その直後、身体を動かしたとき、全身に甘い痺れが広がって泣き崩れてしまった。大勢の人の前で、声を上げて泣いた。

それから、身体の動かし方が分からなくなってしまったのだ。

しかし、身体というのは、考えて動かすものではない。動かそうという意図ではなく、身体を動かしているという自覚と、身体の実際の動きが、ほとんど同時に生じて動いている。そして、それ以前には、行きたいとか、欲しいとかの衝動がある。

どこかに歩いて行くときに、歩くこと自体はほとんど意識しない。どこどこへ行くとか、あれをしに行くなどと目的意識を持って、動いている。
ましてや、右足、左足など意識するのは、子供の遊びくらいで、歩いているときにそのように自覚する人はいない。しかし、当たり前に歩けるのだ。

しかし、このとき、あらゆる衝動が浮かび上がってこなくなってしまった。そうすると、衝動がないので、とにかく自分の意思で動こうとすると、どのように歩いてよいのか分からなくなってしまうのだった。そして、静止したままになってしまう。

考えれば、考えるほど動けなくなる。
「それまで、一体この身体をどのように動かしていたのだろう?」
まるで、この身体が蝋人形のように、全く自分のものだとは思えなくなった。

話そうとしても言葉が出てこない。考えようとすると、思考が止まってしまう。しかし、意図せずに、頭には途切れ途切れに思考が流れている。

そして、なにか大きな音を聞くと振動が全身に伝わり、胸いっぱいで泣き出してしまう。瞑想後は歩く振動でさえ、全身に伝わり、気持ち良くて泣き出してしまう。

それでも、意識は全く正常でよく気づいている。

身体の使い方が分からなくなると、見るということすら難しくなって、視線が虚空に吸い込まれてしまう。

周りの人は、頭がおかしくなったと思ったようで、心配し、病院の手配をしようとしていた。

食べ物を食べることがイメージできず、喉の乾きを感じても、飲もうとか、飲みたいという衝動が出てこない。噛んだり、飲み込んだりの意味が分からなかった。

全く身体が動かないのではなかった。なんとか動かそうとするときには、重いものを踏ん張って息を止めて持ち上げるように、身体を動かさなければいけなくなった。そのとき、心臓がバクバクして、苦しくなる。
でも、自然と動いているときもある。それで余計に混乱した。

このとき、意識は虚空に自動的に惹き込まれ、外界に向けることができなかった。そのため、世界や他人、この身体などが影のように、すべてが現実感がなく遠く感じた。
恐れも、分離感も無かった。私も含め、なにもかもがただ停止していく感じだった。

私の内面では、このまますべて無くなっちゃってもいい、とどうでもよく思っていた。むしろそれを期待していた。今考えれば、世界を存在を否定していたのだ。

それが起こって、5日目くらいだっただろうか。夜一睡もせず、早朝に、ただじっとしていた。そのとき、自分が虚空に魅せられていたことにハッと気がついた。それから、急に気持ちが楽になり、しばらくすると身体が動かせるようになった。

魔につかれていたのだろうか。。

しかし、今でもこの身体を動かすということが不思議でならない。ある意識の状態のとき、身体は考えることなく、自然と動いているのだ。
波に乗るように、流れを止めないようにしていると、そのまま動く。

しばらくは、身体を常に揺すっていなければならなかった。身体を止めると、意識がグーっと一つにまとまっていき、虚空に沈みそうになる。
身体を揺すったり、振動させておくと、エネルギーが散って、巡っていく。そのエネルギーと連動するようにすると、身体が勝手に動くのだ。

透明なものに身を委ねておくと、なにも考えずに自然に動くことができる。しかし、この透明なものは二つあって、一つは想念(概念)としての外にある「虚空」で、もう一が内にある実在の全体性だった。自分が作り出したものか、自分ではないものかの違いとも言える。
それをきちんと見分けておけば、問題はなかった。

想念に集中して(取り憑かれて)いくと、エネルギーが一つに集中されて、非常に強くなる。私にとっては、それが問題を起こしていた。そこから逃れるのが難しくなるのだ。
これは、禅病や偏差などで起こりえることだろう。クンダリーニ症候群とも近いかもしれない。

私はなにか特別に技術的な瞑想はしていない。ただリラックスして座って、起こることに気づいているだけだった。それでも、このようなことは起こるときは、起こるのだ。
とはいえ、4、5時間ずっと座りっぱなしだったりはしていたが。

その後、落ち着いたときには、身体は動かそうとするのではなく、動いていることを自覚していれば良くなった。
そうすると、やはり身体が動いているのが不思議でたまらない。なぜ、どのように動いているかは分からないが、なんともスムーズに動いているのを見ていて、ただただ不思議なのだ。つい笑ってしまうほどだ。

しかし、考えてなにかをすることが難しくなって、あえてなにかをしようとすると、歯車が引っかかったように、一瞬シンと全てが止まる。そして、次の瞬間、笑いが溢れる。

あのとき、「虚空(想念)」を見ていた。そして、あらゆるものが、虚空の性質を帯びていって、虚ろに停止していった。
今でも透明なものを見ている。しかし、それは基底に流れていて、とろけるような柔らかさがあり、微笑が浮かぶような心地良さがある。

「私は身体を動かそうとして動かしていない。ただ流れているのだ」などと言えば、変人扱いされるだろう。
しかし、私にはまさにそのようなのだ。

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