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優生思想論争に疲れた皆さん!反出生主義界隈にいらっしゃい


2024年1月下旬、X(旧Twitter)にて優生思想論争が勃発。


震源地はこちらのポストです。


重度の障害を持った夫婦が、周囲の反対を押し切って妊娠出産。
重度障害者であるパパママには育児能力がないため、ボランティアたちが泊まり込みで育児をしており、その実態を投稿主は問題視してポストしました。

当該ポストは1億回以上も閲覧され、大きな注目を集めました。


「育児能力のない障害者が妊娠出産していいのか」
「障害が子供に遺伝するかもしれないのに良かったのか」
「旧優生保護法は正しかったのではないか」
といったコメントが多数投稿され、優生思想論争に発展しました。


当投稿では、反出生主義者の視点から優生思想論争がいかに不毛かを言及し、優生思想論争を凌駕する反出生思想へと貴方をいざないます。



優生思想とは

優生思想とは、身体的・精神的に優れた能力を有する者を保護し、逆にこれらの能力に劣っている者を排除して、優秀な人類を後世に残そうという思想です。
人種差別や障害者差別を正当化する文脈で用いられます。

優生思想に基づく差別、と言えばナチスをイメージする人が多いかもしれませんが、我が国も無関係ではありません。

戦後まもなく日本では「優生保護法」が施行されました。
不良な子孫の出生を防止することを目的として可決されたもので、これを根拠に障害者の強制不妊手術、人口妊娠中絶を行うことが可能になりました。
この法律は1996年まで続き、その期間に1万6500人の障害者が不妊手術を受けさせられたと推定されています。
2019年には、宮城県に住む知的障害の女性が、過去に強制的に不妊手術を受けさせられたとして、国に賠償を求めて仙台地方裁判所に訴えを提出。これ以降、全国で同様の訴訟が相次いで起こされ、今も法廷で争われています。

2016年、神奈川県相模原市の知的障害者施設「やまゆり園」にて、元施設職員の男・植松被告が入所者19名を殺傷した事件は、今も記憶に残っている人が多いでしょう。
犯行動機について植松被告は「社会のためには劣った存在を排除するべき」いう優生思想的な発言を繰り返していました。

優生思想は案外私たちの身近なところにあるのです。


当投稿では、

健常者、高所得者、身体能力の高い者、知的水準の高い者など、現段階で生存に有利で、生産性の高いとされる者をまとめて「優側」と呼びます。

逆に、障害者、低所得者、虚弱な者、知的水準の低い者など、現段階で生存に不利で、生産性に乏しいとされる者をまとめて「劣側」と呼びます。


優生思想の問題点

優生思想が社会に蔓延した場合、以下のようなデメリットがあります。
・種の多様性が失われる
・新たな「劣」が生まれ続ける


・種の多様性が失われる
生物が生き残るためには、色んな特徴の個体がいると有利です。
多様性のある生物は環境変化において生存確率が高い、というのは生物学的に証明されています。
例えば同じ田んぼの稲穂でも、よく見れば高さや強度が違うことに気づきます。
これは災害や病気で絶滅しないための種としての生存戦略なのです。
わたしたち哺乳類ヒト科においても、環境の変化によっては、健常者として生きている人よりも、何かしらの障害のある人のほうが生存確率が高くなることが考えられます。
例えば、普段外に出られない対人恐怖症。
徹底的に清潔にしないと気が済まない強迫性障害。
未知の疫病が大流行した場合、こういう人のほうが生き残るのに有利です。
健常じゃない性質が有利になる、これが種の生存戦略としての多様性です。
優生思想によって劣側が淘汰されていった場合、種の多様性は崩れていってしまいます。


・新たな「劣」が生まれ続ける
現時点において「劣側」とされる存在を抹消して、「優側」だけを残した場合、どうなるか。
今度は残された「優」の中から新たな「劣」が生まれます。

知的水準を例に見てみましょう。
日本人の平均知能指数IQは100が平均値で、IQ75以下は知的障害とされています。  

出典:『マンガでわかる 境界知能とグレーゾーンの子どもたち』(宮口幸治著/抹桑社)


もしも、IQ75以下の人たちに出産を禁止し、かつ今生きているIQ75以下を安楽死させた場合どうなるか。

日本人の平均IQが上がり、社会はますます高度化します。
すると現在の境界知能(知的障害とまではいかないが知能指数が低く生きづらさを抱えている人たち)が障害者を見なされるようになります。

同様のことは身体的特徴や所得等にも言えるでしょう。
「身長160cm以下の男には人権がない」と低身長男性が淘汰されていくと、日本人の平均身長が上がり、今度は「身長170cm以下の男には人権がない」に行き着いてしまいます。

また2019年には某評論家が「年収890万以下の人間は社会のお荷物である」と発言したことが話題になりました。
これは収入が890万円を下回る世帯については、税金や社会保険料の支払いよりも国から受け取る分配(年金や教育など市民サービス)のほうが多いことが根拠になっています。
低年収世帯を切り捨てた場合も、今度は高年収世帯の間から切り捨てられる存在が生まれるでしょう。
いつ自分も切り捨てられる側になるか分からない、そんな社会で安心して暮らすことは不可能です。


反優生思想の問題点

一方で私たちが優生思想に抗い、劣側の妊娠出産を肯定し、生存権を保障し続けた場合
・優側の負担が重くなる
というデメリットがあります。

今も、賃金はたいして上がっていないのに、社会保障費の増大につれて年金や税金がどんどん上がっていって私たちの暮らしは圧迫されていますよね。

また障害者の中には、行動を制御することが苦手な人がいます。
突然大きな声を出したり、突然走りだしたりする人を街中で見かけた経験のある人も多いでしょう。
私自身、知的障害を持っていると思われる成人男性に街中で突然身体を触られ、びっくりした経験があります。
男性の母親と思われる高齢女性が走ってやってきて、小柄な身体で成人男性を捕まえ、私に対して「すみません、すみません」と何度も謝ってきた姿が印象に残っています。
行動を制御できない人が近くにいたら、落ち着いて生活できないですよね。

障害者が生きやすい社会は、健常者が生きにくいのです。

また福祉のリソースは有限です。

少子化が進んでいるにも関わらず、特別支援学校に通う児童数は増加しています。
理由としては、高齢出産の増加で障害児が生まれやすくなってきていること、新生児医療が進歩して以前は助からなかった重度障害児が助かるようになったことが挙げられます。
特別支援学校の施設設備はもちろん、教職員や医療ケアを行う学校看護師などの人員補充も追いついていません。

特別支援学校は、一般の小中学校に比べて児童一人当たり10倍の税金がかかっています。
理由としては、支援学校は児童一人に対して教職員数が多いこと、特殊な教材や施設設備が必要であること、広域から通う児童が多く送迎バスを出していること等が挙げられます。

既に生きている障害児(者)の福祉リソースを守るという視点から、「劣」の出生を制限するべきだという声もあります。


優生思想論争は不毛

優生思想主義者と反優生思想主義者は、一見敵対しているように見えますが、各々の価値観や経験に基づいて、社会にとっての最善は何かを考えて発信しているという点では共通しています。
一人の声で変えられるものなんて限られているのに、それでも諦めず、この忙しい現代社会の日々の中で貴重な時間を割いて発信をする、その姿勢はとても尊いものだと思います。

しかし私からすれば優生思想論争など不毛です。
なぜなら、優生思想も反優生思想も凌駕する思想、その名も「反出生主義」を持っているからです。
反出生主義を持つ私たちには、今回の優生思想論争など高みの見物でした。


反出生主義とは

反出生主義とは「新たな命を生み出すことを無条件で否定する考え」です。
どストレートに言うなら「優側だろうと劣側だろうと生むな!もう人類全員生むな!」ということです。

少子高齢化が深刻化し、未来の「労働者」「納税者」「介護要員」の減少が危ぶまれる現代日本においては、出産は肯定され賛美されています。
しかし、冷静に考えて「新たな命を生み出すこと」はそこまで素晴らしいことでしょうか。

人間社会は誰もが平等に幸せになれる場所ではありません。
病苦、災害、いじめ、DV、差別や偏見、残虐な事件、ブラック労働、パワハラ、裏切り、いがみ合い。
世界には理不尽な苦しみが絶えません。
日本の年間自殺者数はおよそ3万人。
死にたい気持ちを抱えながら生きている人は、実際の自殺者の数十倍はいるでしょう。

今の社会には「生きているだけでえらい」というメッセージが溢れています。
ただ生きる、それだけのことが決して容易でないからこそ、このようなメッセージが生まれたのでしょう。

「自殺を選ぶ人生」「死にたい気持ちを抱えながら生きる人生」に当たる可能性は、誰しもゼロではありません。
この世に新たな人間を生み出すことそのものが命を使ったギャンブルと言えます。

「可愛がれる自分専用の新品の人間が欲しい」。そうした自分のエゴを満たすために妊娠出産すること、すなわち一人の人間をギャンブルに強制参加させることは、倫理的に正しいと言えるでしょうか。
わたしには、出産が究極に自分勝手な行為に思えてなりません。

それに「哺乳類ヒト科」という生命体そのものが、少子化対策に躍起になってまで存続させる価値を持っているとも思えません。

ヒトは食肉や皮革を得るために動物を殺します。
ヒトは工業によって二酸化炭素を大量に排出し、汚水を河川に流し、都市開発のために森林を伐採し、環境を破壊します。
ヒトは戦争をします。
ヒトは核兵器を作ります。
ヒトはエゴまみれの愚かな存在です。

哺乳類ヒト科なんて存続させる価値などないのです。

「~なら生んでいい」と条件付きで出生を認める優生思想も、
「誰しも生んでいい」と無条件で出生を肯定する反優生思想も、
反出生主義者からすれば、どんぐりの背比べです。

もしも私が優生思想論争に乱入するなら「健常者だろうと障害者だろうと出生はクソ!人類全員で出生やめろ!」と主張するでしょう。


反出生主義しか勝たん

ここまで読んで「なんやコイツ。えらい極論を主張するなあ😅」と感じた方もいるかもしれません。

しかし私たちが生きる社会はいつだって不平等で、理不尽な苦しみが存在します。
どれだけ政治で社会を良くしようと足掻いても限界があります。
私たち人間が不完全な生き物だからです。

先述したように、優生思想にも反優生思想にもデメリットがあります。

優生思想が強まれば、劣側はいつ排除されるか分からず怯えて暮らさなければなりません。
一方で反優生思想が強まれば、社会保障費が増大して人々は重税に苦しみます。経済苦からブラック労働に搾取される人や、違法商売に手を染める人も出てくるでしょう。ヤングケアラーやきょうだい児のフォロー体制の構築も課題になります。

優生思想にせよ反優生思想にせよ、誰かの犠牲は避けられないのです。

「多少の犠牲は仕方がない」という意見もあるかもしれません。
でも「多少の犠牲は仕方ない」という声は、現在進行形で犠牲になっている側から出てくることはほとんどありません。

また「犠牲が少なくなるように社会を良くしていけばいい」という意見もあるでしょう。
確かに女性差別や黒人差別、LGBT差別が減ってきたように、一人ひとりのアクションによって社会を動かすことは不可能ではありません。
しかし社会を良くしていくには、果てしないプロセスを要します。
その間にも犠牲は発生します。

例えば、令和の現在の日本では、同性愛者であることをカミングアウトしても迫害を受けることはほとんどありません。パートナーシップ条例を導入する自治体も増えており、同性カップルの権利を保護しようという機運も高まっています。
しかし中高年世代の同性愛者は、2008年(平成20年)に宝塚大学の日高庸晴教授が発表した調査結果が記憶にある人も多いでしょう。ゲイやバイセクシュアルなど性的マイノリティの男性は、異性愛者の男性に比べて自殺を図るリスクが6倍高いというものです。
現在の比較的LGBTに寛容な時代にたどり着くまでに、どれだけの苦しみと犠牲があったのかと思うと胸が痛みます。

何かを大きく前進させるには、どうしても犠牲が発生してしまうのです。

それならいっそ人間社会ごと無くしてしまいましょう!
人類全員で出生を控えて、優しく段階的に滅亡していきましょう。
人間そのものを産まなければ、誰も確実に苦しまずに済むのです。
この世の苦しみを根絶するにあたって「生まない」に勝る方法はありません。

反出生主義は究極に平等な思想です。
すべてを優しく平和的に解決してくれます。

優生思想論争に疲れた皆さん。ようこそ、反出生主義界隈へ。