見出し画像

みんなそんな難しいことを考えているんだろうか

 私は曲を作る。とても難しいことだ。四年前から作曲を始めて、今作品が百だの百五十だのある。本当に上手くできたなと思うのは十くらいである。
 作曲は神経を擦り減らすものである。文筆や絵画ならラフにできるものもあるが、作曲に関してはただの鼻唄を除いて専ら耗弱する。私は主にDAWを使って作曲をする。一つのフレーズを何種にも弄り回す訳だから、聴く度不規則に音が変わり、大分憔悴する。烏滸がましいことだが大変苦労している。みんなこんな難しいことをやっているんだろうか。

 「私にとってナニナニは、鏡の様なものです」というのは古典的な謂い回しであるが、実際私は作曲を鏡のようなものだと思っている。作曲だけではなく、生活や、文筆や、環境までも。結局鏡の方の実態が気になって来る。影と言った方が当を得ているだろうか。しかし鏡とは、見つめたら見つめ返す特性を伴っているのだから、三葉虫の楽曲たちは鏡と言っていいのだろう。
 鏡になって見えるのは、曲が出来てから大分後になってからである。私はすぐ曲にして、完成させてしまう性分だったから、今年、曲が浮かんでからそれが鏡の様になるまでの期間を完成させずに計ってみた。およそ半年である。更にそこから完成した楽曲が鏡になるのを待つ。また構想が生まれて一年経って、やっと作曲に着手する場合もある。ここまで来ると、何だか曲を鏡にしたくて作曲している様で疲れて来る。みんなこんな難しいことをやっているんだろうか。

 頭でっかちになるのは切なくて辛い。単なる無知蒙昧でなく、増して判り切った悪事でもなく、中途半端な愚かさと罪の感じに襲われる。
 こういうことは非常に多い。作曲とは、所謂「正解のないもの」であり、アマチュアの私は誰かにその道を講じて頂いた訳でもなく、タブラ・ラサ、ひろーーーい内在世界を歩き続けているのである。手がかりは音だけというのも何だか辛い。
 まあ、これは面白くもある。しかし大変な作業であることに変わりはなく、みんながみんなできる筈がない。みんなこんな難しいことをやっているんだろうか。

 みんなのことを攻撃したくなることさえある。ついさっきも、音楽を変えて自分を変えないものは、音楽にナイモノネダリしていてみっともないとか言いたくなって抑えていたところだ。悪く言いたい訳ではなく、純粋な疑問なのである。それが攻撃的な形をとってしまう。人はみな、不屈の訝しさを抱えていて、それを放つ事も容易い。それが人を刺す棘ではなく、爪に満たない小さな葉であれと願う。それに気づいて欲しい。そして気付きたい。作曲者諸氏に尋ねたい。音楽の意義に関する疑問(己との軋轢を伴う)とは、どのように解消されるべきか。
 みんなこんな難しいことをやっているんだろうか。

 私は時々、フォローされる側の人間ではなく、フォロワー側の人間だと感じることがある。何もない場所から自分の理念を採集し、それを提示する。これがフォローされる側の人間像だと思うが、私には難しい。或る人について解釈を行ない、それを広めたりする方が私には向いている。一段階踏めばそれで折り合いもつけられるが、自分について探求するのがオリジナルな作曲者である。最果てに住まう者たちの。
 オリジナルな面と、他人を解釈する面を両立させるべきだと感じる。これも難しいことだ。他人の意見に流されてしまうことだってある。それに人間、すぐに天秤に掛けてしまうものだ。みんなこんな難しいことをやっているんだろうか。

 難しい難しいと言ってきましたが、難しいだけで、やらない訳ではないです。ただ本当に皆さんが、こう色々難しいことを考えて生きているのかな、それを乗り越えて来たのならとても有難いことだなと思ったので、思ったままに書いたのです。こういうエッセイが出来て嬉しく思います。良ければ是非、ご感想を下さい。「私はこれこれこういう者で……」なんて、踏み込んだものが来ると嬉しいです。それでは、お気を付けてお帰りください。